純愛・郁よ
(二十三)母の威厳
母親の長い話しが終わった。
やはり実の母親にかかっては、郁の変化を見破られるのは避けられない。
「間違いありませんね?」
郁の母親は、強い口調で念押ししてきた。
俺の横で、郁は緊張して固くなっている。
「はい。間違いありません」
「なんてことを……」
ふうっ。
と、大きなため息をついた。
「申し訳ありません」
「違うの! ひろしは悪くないの。あたしが……」
「いいから、郁は黙っていなさい」
炊事・洗濯・掃除などの家庭内においては主婦がすべてを担い、男は食って寝て遊
んでいるだけでいい。それが許される社会だ。
だが社会的な問題が起きた時は、男の責任においてこれを解決する。
それが社会のルールだ。
しかし、俺はルールを無視し、警察に届けることなく、郁に育てさせた。
「子供が泣いていれば、他人の子でも抱いてあやしたくなる。これが母性本能です。
時として理性を失わせる女性の本能なのです。子供を産む事のできない郁が、捨てら
れ泣いている赤ん坊を見れば、これを連れて帰って育てようと考えるのは、無理から
ぬことでしょう。本能に従っただけで、情状酌量をもって、郁には罪はないと言える
でしょう。あなたがそれを黙認したことこそが罪に問われることなのです。夫として、
あなたには妻に対して、扶養する義務と責任があります。その時すぐに警察に届けれ
ば、郁が罪に問われる事はなかったのです。重々注意で済んだと思います。黙ってい
たことで、嬰児誘拐という罪に問われることになるのです。これはすべてあなたの責
任です。わたしの考えは間違っていますか? 武司さん」
「いえ。その通りだと思います」
「子供は、すべてにおいて社会的保障を受ける権利を有しております。あなたが育て
ている子供に、今それがありますか? 出生届けは? 戸籍は? 健康保険は?」
「ありません……」
「そうでしょうねえ。あなたは、その子の将来を踏みにじるつもりですか?」
「そんなつもりはありませんでした」
「しかし結果的にそうしているのです」
答える言葉がなかった。
「これは明らかな犯罪です。警察に届ければ留置されるでしょう。あなた達二人は、
嬰児誘拐の罪と幇助罪かなんかに問われるのは確実です。まあ、情状酌量は見てもら
えると思いますから、懲役はないと思います。あっても執行猶予がつくでしょう。す
べてはあなたが巻いた種です。責任は取れますね」
「はい。覚悟しています」
「とにかく明日、あなた一人で東京に戻り、会社に辞表を出しなさい。会社に迷惑を
掛けるわけにはいきません。犯罪が明らかになれば、どこそこ勤務の誰それというの
が発表されますから。退職していれば少しは軽減できます。それに警察沙汰になれば、
どうせ仕事なんてできる状態ではなくなりますから。退職理由は妻の実家に戻って農
家を継ぐとでもしておけばいいでしょう。そして役所に転出届けを出して、わたし達
の家に引っ越してきなさい。引っ越し準備全部おまかせコースかなんかを利用すると
いいでしょう。ご近所への引っ越しの挨拶も忘れずにね。これまでお世話になったこ
とに、ちゃんとお礼を述べるのが礼儀です。ここまでは理解できますか?」
「はい。判りました」
「郁!」
「はい」
「あなたは茜ちゃんと一緒に病院に行って、乳房を診てもらいなさい。授乳ができる
ことを証明する診断書を書いてもらうのです。それが済んだら、引っ越してくる部屋
の用意です。家具をどこに配置するとかを考えておきなさい。わかりますね」
「はい」
「武司さんが戻ったら、二人揃って婚姻届を出しなさい。祝言は後でもできますから。
そうしたら今度は、乳房の診断書とあたらしい夫婦の戸籍謄本を持って茜ちゃんと三
人で児童相談所へ行って、捨て子を拾って育てていること、これまでの経緯すべてを
話しなさい。茜ちゃんを養女として身請けしたいことを話しなさい。いいですね?」
「わかりました」
「間違っても警察へ行っちゃだめですよ。警察は犯人を逮捕・起訴することばかり優
先して、子供を取り上げて拘留してしまうでしょう。たぶん子供の事なんか二の次に
されてしまうでしょうね。でも児童相談所なら、まず子供の将来のことをじっくり考
えて相談に乗ってくれます。警察へも通報してくれるでしょう。子供とあなた達のこ
とを考慮に入れながら、警察と連携して動いてくれます。普通なら茜ちゃんを取り上
げられるところですが、授乳する必要上から郁に茜ちゃんを預けたまま、捜査がはじ
まる可能性もあります。まず子供の命と権利を保障し優先する、子供と母親にとって
何が一番必要であり大切な事かを考える。それが児童相談所だからです」
ぐうの音も出なかった。
人生経験は豊富だ。俺達の知らない事まで良く知っている。
郁を育ててきた自信からだろう。
俺達に最上の注意と助言を与えてくれようとしている。
「とにかく、今日はこれで休みなさい。明日から忙しくなりますよ」
と、俺達を残して部屋を出ていった。
その夜は、とても眠れたものではなかった。
郁も俺に寄り添うように黙り込んだままだった。
翌日、俺は一人だけで東京へ戻った。
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