梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろしかた

(九)そんでね……  カーディーラー側でも、ファントムYに乗って戻って来た二人を、驚きの表情で 迎えることになった。  契約書作成のプロである支店長が手際良く書類を作成していく。後に不利益となる ようなミスのない完璧な書類だ。 「それではお嬢さま、サインをお願いします」 「はい。英文字のサインでいいよね。漢字は下手だし、書くごとに字体が変わっちゃ うから」 「結構です」  書類を手渡されてサインをする梓。  サインの仕方などは、日頃から練習しているせいか、見事な書体のものを記してい る。 「お嬢さま、今後は書類などにサインをすることもありますので、真条寺家にふさわ しいサインの手法を修得されたほうがよろしいでしょう。他人に簡単に真似されない ような、かつ美しいサインを練習しましょう」  ということで中学入学以来から、麗香の手ほどきを受けていたのだ。  通常ローンを組んでの自動車の購入には実印というものが必要だが、手形による一 括決済のためその必要はない。ローン会社による抵当権設定がなく、直接所有権の移 譲が実行されるからだ。 「支払いは、当行の銀行振り出し手形でよろしいですね?」 「はい、結構です」  手形にもいろいろあるが、最も信用のあるものが、銀行振出手形である。  しかも真条寺財閥が筆頭株主で大口預金者となっている新都銀行は、世界一安定し た企業銀行としての地位を確保しており、そこから振り出される手形は、不渡りを絶 対に出さない手形証券として、日本銀行券やドル紙幣・ユーロ紙幣にも匹敵する信用 価値があった。  梓の元に、スポーツカーが届けられたのは、その日から丁度十日目のことだった。  ディーラーから鍵を受け取り、それを改めて麗香に渡しながら、 「以前欲しがってたでしょ。それでね、いつもお世話になってるから、お礼の気持ち を込めてプレゼントしようと思ったの。だから、麗香さんには秘密にしておこうと、 全部自分でやってみようとしたんだけど、結局麗香さんの手をわずらわせちゃった」 「そうでしたの……」 「ごめんね。黙ってて」 「いいえ。自分のためではなく、人のために何かしてあげるという、お嬢さまのお気 持ちが何より嬉しいです。お嬢さまが秘密にしたいとおっしゃった時、たぶんそうで はないかと直感しました。自分の為ではなく、誰かのためにという思いが感じられま したので、あえて問わないことにしたのです」 「そうなんだ……」 「こんな高級車を頂くわけには参りませんが、車の登記上の所有者は梓様、使用者が 私ということで、有り難く使わせていただきます」 「うん。そうしてね。それで、ちょっと質問したいんだけど」 「どのような質問でしょうか」 「新都銀行に預けてる、あたしの預金ってどれくらいあるの?」 「お嬢さまが、そのようなことを気になさるものではありません。そんなことお考え になるよりも、お勉強の方を大事になさってください」 「ちぇ、いつもはぐらかすんだから……」 「お嬢さまが家督をお継ぎになられましたら、お教え致しますよ」 「それって、いつのこと? 十六歳になったらかな……」 「渚さま次第でございます」 第七章 了
     
11