「逃げろや逃げろ」

「ちきしょう。なんてしつこい奴なんだ」  奴は、相変わらずその無表情な顔で、執拗に追いかけてくる。  もうどのくらい逃げ回っているのだろう。  いや、もはや時間など意味をなさないかもしれない。  なぜなら……  目の前に交番が見えてきた。  俺は無意識に、中へ飛び込む。  しかし、中には誰ひとりいない。  甘かった。  仮におまわりさんがいたとしても、奴があいてではなすすべもないだろう。  俺は、再び夜の街へ飛び出した。  誰一人いない夜の街を走り続ける。  誰一人?  おかしい。  いくら夜中とはいえ、通行人が一人もいないってことはないだろう。  車の一台すら通らないのだ。  いつも利用するコンビニの前を通る。  まばゆいばかりの照明に照らされた店内、数多くの商品が所狭しと並べられている。  人々のより良い生活を保障するために24時間休まず営業されている。  レジのそばでは、おいしそうなおでんが湯気をたてている。  しかし、肝腎な客の姿はおろか、店員すらいないのだ。 「そんな馬鹿な」  俺は、逃げ回りながらも辺りを観察する。  人はおろか猫一匹見あたらない。  まるで街全体から全ての生き物が消え去ってしまったかのようである。  いや、生き物だけでなく、ほとんど動くものさえないのだ。  シーンと静まり返った虚像のような街の中を、俺と奴だけが奇妙な追いかけっこをつづ けている。動いているのはそれだけなのだ。  虚像? 「もしかして……」  俺は二の句を飲み込んだ。  目の前に先ほど立ち寄った交番が現れた。 「なんてこった」  俺は気がついていた。  逃げ回りながらも、自分が同じ所を何度も堂々巡りしていることを。  可愛い女の子のいる喫茶店、立ち読み専門の本屋、陸橋そばのラーメンの屋台、俺がい つも利用する馴染みのお店が現れては消え、そして再び現れる。  そこには、俺の日々の生活があった。  市立図書館が見えてきた。 「そうだ、ここは俺と静香とがはじめて出会った思い出の場所だ」  いつのまにか、俺は図書館の中にいた。  相変わらず人はだれもいない。  しかし、館内の風景はあの時のままだ。  そうだ。この机に静香は座っていたっけ。俺が椅子につまずいて、静香にぶつかり二人 して床に倒れ込んでしまったんだ。気がつくと俺は静香の豊かな胸をつかんでいた。真っ 赤になって恥らう静香の表情を今でも思い出せる。それが縁で静香との交際がはじまり、 やがて結婚した。そんな思い出深いこの場所を、忘れるはずがない。  静香……  奴が現れた。 「こんなところまで……ちくしょう」  俺は図書館から追い出されるように逃げ出した。  俺の脳裏には静香のことでいっぱいであった。 「そういえば静香はどうしているのか」  自然に俺の足は、俺と静香がともに暮らすマンションに向かっていた。  階段を昇る。  俺達の暮らす部屋が目の前にあった。  扉を開けて中に入る。  だが、笑顔で迎えてくれるはずの、静香の姿はなかった。  清潔好きな静香によって、隅済みまで掃除のいきとどいた部屋。心を和ませてくれるか らと静香によって所々に置かれた鉢植の花。この時計も、この壁紙もすべて静香がみつく ろったものだ。  主婦としての静香のすべてがここにある。  新婚生活の日々が思い起こされる。 「子供は女の子がいいな」  甘えたような声で言う静香。返答にこまって言葉が出ない俺。  やさしく、人一倍思いやりがあって、何でもよく気がついた静香。  俺の前には、冷え切った虚しい部屋があるだけだった。  扉が開いた。  俺は、静香が戻って来たのかと期待に胸踊る。  だが入ってきたのは、いっそう無表情な顔をした奴であった。 「思い出だけで飽きたらず俺達の実生活までも、抹殺しようというのか!」  俺は、部屋を飛び出していた。  マンションを上へ上へと昇っていく。  屋上に出ていた。  奴はゆっくりと後を追って昇ってくる。  もはや、逃げる場所はない。  逃げる場所?  そんなもの、もともとありはしない。  俺はやみくもに逃げ回っていたが、どうあがいても奴からは逃げられないことに気がつ いていた。  ここは、奴が作り出した幽閉空間なのだ。  俺は手摺を乗り越え、闇の中へ飛び込んでいった。  脳裏に静香の顔が浮かびあがる。  暗転  俺は、ベッドの中にいた。  ひどい寝汗をかいている。 「夢だったのか?」  俺は、サイドワゴンに置かれたポットからコップに水をそそいで飲んだ。  ふと、横に寝ているはずの静香の方に目をやった。  いない。  俺は、いやな予感がした。 「ふふふ……」  突然背後で声がした。  俺は反射的に身構えたが、バランスを崩してベッドから転げ落ちてしまった。  声の主は、奴ではなかった。  そこには、可愛い表情で微笑む少女がいた。 「驚かせちゃったみたいね」  年の頃14、5歳というところだろうか。あどけなさを残した表情は、この場に似つか わしくなかった。  それにしてもこの子はどこからこの部屋に入ってきたのだろうか。 「き、君は?」 「あたし?」 「そうだ」 「ふふふ……あたしは、夢幻霊界の案内人よ」 「夢幻霊界?」 「知らないの?」  俺は、首を振った。 「そうよね。知らないわよね」  夢幻霊界とは、いったいなんなんだ。  霊界というからには、死後の世界のことか?  俺は死んでしまったというのか? 「あなたは、まだ死んではいないわ」  俺の意識の中に直接、少女の声が響いてきた。 「あ、ごめんなさい。あなたの心を読んじゃったの」 「どういうことなんだ。教えてくれ。ここはどこなんだ。君は一体何者なのか」  俺の心を読み取ることのできる少女、そして今いるところもどうやら現実の世界ではな さそうだった。さらに俺を執拗に追いかけ回している奴のことも、すべてが謎だらけであ った。 「ここは、夢幻霊界。生ある人の住む現実の世界、夢の世界、そして死たる人の存する霊 界、この3つの世界の接合点にあるもうひとつの世界よ。夢の世界にさまよう死んだ人の 魂を浄化させて霊界へと誘い、輪廻転生の手助けをするのが、あたしの役目なの」 「夢の世界と霊界がつながっているのか?」 「そうよ。といっても、あなたの考えているのとは少し次元が違うけど」  といって、少女は少し肩をすくめた。 「次元が違うとは」 「そうね……人は夢を見るわ。それはわかるでしょ」 「あ、ああ」 「じゃあ、死んだ人や今にも死にそうな人はどうなのかしら? やっぱり夢を見るとおも う?」 「それは……」  俺にはわからなかった。ただ、いままでの少女の言葉を総合すると、死人も夢を見るの だろうか。 「ふふふ。あなたのいる現実の世界にあてはめて考えるから、おかしなことになるのよ。 死人は夢なんか見ないわよ。死体はもはやただの物体でしかないんだから」  そういって少女は無邪気に笑った。 「何が言いたいんだよ。わかりやすく説明してくれ」 「生きているってことの意味と夢を見るってことの意味を、魂の観点から考えてみてよ」 「魂の観点から?」 「生きているってことは、魂を身体に宿している状態のことを意味しているのよ。死ぬっ てことはわかるかしら」 「魂が身体から抜け出してしまうこと」 「ピンポーン。当りよ」  こののりの軽さは一体なんなんだ。 「じゃあ、夢を見るってことの意味は?」  いきなり本題に入ってきた。それがわかるくらいなら苦労はしない。 「夢を見るということは、魂がちょっと身体から抜け出して、夢幻界に遊びに行ってる状 態のことなの。でも死んでいるのではないから、いずれ元の身体に戻るけどね。そのとき、 夢幻界での出来事はほとんど忘れてしまうの。中には記憶として残る場合があるわ、それ が夢として認知されているものなの」 「生きていても魂が身体から離れることがあるのか?」 「もちろんだけど……。生きている人の場合、身体と魂の間には二つを繋ぎとめておく精 神的エネルギー、オーラと呼ばれるものでつながっているから、離れ離れになることはな いの。さっき次元が違うといったこと覚えてる?」 「ああ」 「人の身体っていうのは、魂にとって単なる入れ物にすぎないってこと。だって輪廻転生 を繰り返すのは<魂>なのだから。ただ、魂ってやつは宿主<よりしろ>を必要とするの、 人が住むための家を必要とするように。宿主は普通なら人の身体であるわけなんだけど、 不慮の事故とかなんらかの事情で身体を失った魂は、特定の場所に浮遊していたり、家屋 に縛られていたりするの」 「浮遊霊とか自縛霊とか呼ばれているやつだな。そんな魂を浄化させて、霊界につれてい くのが君の役目ってわけだ」 「そうなの。少しは理解してきたみたいね」 「そんな君がどうして俺の前に現れる? 俺が死んでいないとしたら……」 「ふふふ……だって」  少女はいたずらっぽく笑った。 「あなたは、まだ死んではいないわ。でも、生きてもいないもの」  突然、奴が壁を通り抜けて現れた。 「あらら、悪霊に発見されたみたいね」 「悪霊だと!」 「そう。死んだ人の魂を浄化して霊界に導くのがあたしの役目なんだけど、中にはどうし ても浄化できない魂もあるの。それが悪霊というわけ。よっぽど、この世に未練があると か怨念があるとかね。彼の場合は、やはり自分も悪霊に殺されたってところかな。だから、 自分も誰かを道ずれにしなければ成仏もできないって思い込んでいるの。そのターゲット にあなたが運悪く選ばれてしまったわけ」 「じゃあ、なにか? 俺がとり殺されれば、奴は成仏するってことか?」 「そうなの。で、後はあたしが浄化して彼を霊界につれて行くわけよ。そのために、あた しはここにいるの」 「冗談じゃない。そんなことってあるかよ。つまり、俺に身代りになって悪霊になれって ことか」 「あはは、その通り。だから、はやく彼に捕まってくれない? そのほうがあたしも楽で いいんだけどな」 「悪霊にされてしまう俺のことは、どうでもいいのかよ。救われない魂を救うのが、君の 役目なんだろう」 「だから、あなたはまだ、死んでもいないし生きてもいないから、今の時点ではあたしの 管轄外なの。悪霊になったとき考えてあげるから。それにあなたが、悪霊になるとは限っ てないもの。あなたの心がけ次第では、一緒に成仏できるかもしれないわよ。自ら進んで 命を差し出せば閻魔様も無碍にはしないわよ。その時はやさしく霊界に案内してあげる」 「結局、俺に死ねってことじゃないか。悪霊になるのと成仏するのとの違いだけで」 「そうなるわねえ……きゃははは」  少女はくったくなく笑った。  奴が襲いかかってきた。  すんでのところで、それをかわして俺は逃げ出す。  逃げる?  一体どこへ逃げるというのだ。  考えながら逃げていたせいか、俺はマンションの足を滑らして階段を転げ落ちていった。 暗転 「ちきしょう。なんてしつこい奴なんだ」  奴は、相変わらずその無表情な顔で、執拗に追いかけてくる。  もうどのくらい逃げ回っているのだろう。  いや、もはや時間など意味をなさないかもしれない。  なぜなら……  ここは夢幻霊界。  夢を見るためにちょっと遊びに来たという魂や、死んで身体を失った魂がさまよい歩く 世界である。悪霊とかいう危ない奴とか、案内人と称するキャピ☆ルン少女も排回してい る。 「ねえ。いいかげんあきらめたら? いくら逃げたって逃げ切れないんだから。」  少女は、空中にふわりと浮かんだ状態で、俺のすぐ横にまとわりついていた。 「君もしつこいなあ」 「だってえ。あたしだって、次の仕事がたくさんあるんだから。いつまでもあなた達にか かわっていられないもの」 「だったら、そっちのほうから先にかたづければいいじゃないか」 「そうはいかないのよ。人が死ぬのにも順番があるんだから」 「なんだよ、順番ってのは」 「殺人を犯した人がその直後に自殺したという状況を考えてよ。この場合まず被害者が先 に死ぬわけで、殺人犯人は必ず後ということ」 「そりゃ、そうだが……」 「閻魔帳には、いつ誰が死んでいつ生まれ変わるかといったリストが記されていて、その 順番どおりにあたしは行動しているわけよ。だからここで、あなたにちゃんと死んでもら わないと、次の人が困るのよ」 「そんなこと俺が知るかよ」 「もう……しようがない人ねえ」 「どっちがだ」  不条理ともいうべき俺と案内人との会話が交わされているあいだも、悪霊の奴はあいも 変わらず、無表情な顔で追跡を続けている。 「ちょっと待ってくれよ」  とか、 「死にやがれ」  とかの一言も言ってみたらと思うのだが。  といっても、待つつもりも死ぬつもりもないが。 「それは、無理よ。身体を失った魂に言葉は意味をもたないもの」  まったくうるさいなあ。こっちは必至で逃げ回っているというのに、この娘がいること じたいこの雰囲気に似つかわしくない。こいつがあらわれてからというもの、全然緊張感 が消え失せてしまっているぞ。本当にここは夢幻霊界なんだろうな。 「あ。そんな言いかたってない……せっかくあなたのために、いろいろ教えてあげてるの に」 「よけいなおせわだ」 「あ、そっか。浄化しちゃったら、結局記憶をすべて忘れるんだっけ……教えてもしよう がないんだ」  少女は、手の平をこぶしでポンとたたいて、一人で納得していた。 「というわけだから、死んでくれるでしょ。おねがい」 「だから、なんでそこにこだわるんだよ」 「だってえ……」 「可愛い女の子にお願いされりゃ、そりゃかなえてあげたい気にもなるが……」 「でしょ、でしょ。だったら」 「あのなあ……洋服を買ってよとか、アクセサリーが欲しいとかとは、全然お願いの内容 が違うだろが。命だぞ。い、の、ち! ほいほいと買ってあげられるものじゃないんだ ぞ」 「そりゃ、そうだけど」 「ところで、一つ聞いていいかい?」 「なによ」 「仮に、死んであげてもいいとしてだ」 「ほんと! 死んで、死んで。いますぐ死んで」 「話しは最後まで聞けよ」 「じらさないでよね」 「みかわりはないのか?」 「みかわり?」 「つまり、最後のお願いをなんでも一つだけ聞いてくれるとかさ」 「あ、それはなしよ。あたし、そんな権限や能力は持ち併せてないのよ」  少女はきっぱりと答えた。 「そっかあ。残念。じゃあ、死ねないな」 「ずるーい。期待させといてさ」  目の前に大きな川が突然現れた。  なんだこの川は?  川原のいたるところには、小石で出来た小山がたくさんつくられていた。 「だれかいる!」  目をこらすと、薄ぐらい川原のそこここにうす汚れた子供たちがおり、小石で山を築こ うとしていた。 「人間だ。なんでこんなところに」  俺は、近付こうとして声を失った。 「違う! 人間じゃない。あれは、餓鬼だ」  その時、俺は小石の山を一つ、足で壊してしまった。  その山を築いていた餓鬼の一人が、声にならぬ叫びをあげた。  いっせいに餓鬼どものすべてが、俺のまわりに集まってきた。 「な、なんだ」  餓鬼は恐ろしい形相で、俺に飛びかかってきた。  俺は間一髪それをかわし、餓鬼の群の中から抜け出せた。  俺は、餓鬼の集団に追われるはめに陥ったのだ。 「冗談じゃないぜ。悪霊だけでもうんざりしているというのに……」  俺は、川を渡りはじめた。 「だめよ! そっちにいっちゃいけない」 「そんなこといったって逃げ場はこっちしかない」 「でも、そっちは……」 暗転  俺は完全に川を渡りきっていた。  川を渡ったこちら側の風景は一変した。  暗黒の世界といった描写が正しいというほど暗く何もなかった。  餓鬼どもは川を渡れないのか、岸辺からはよってこない。もっとも俺も、元には戻れな くなっていたが。  静かだった。  なぜか穏やかな気持ちになってくる。  そしてなにより、あの悪霊の姿が消えてしまっているのだ。  あれほど執拗に俺を追い回していた奴が……  俺の目の前に、呆れた表情の少女が現れた。 「あーあ。とうとうここまで来ちゃったわね。ここが、どこだか知ってるの?」 「知るわけないだろ」 「でしょうねえ。知っていれば川なんか渡らなかったはずね」 「なんだよ。ここは一体どこなんだ。夢幻霊界とは違うのか」 「違うわ。ここは、悪霊も餓鬼も入ってこれない神聖な場所」 「神聖な場所だと」 「だって、ここは霊界だもの」 「霊界だと!」 「そうよ。あなたは三途の川を渡って霊界に足を踏み入れてしまったの。ここには生ある 魂は入れないの。川を渡った時、あなたの身体と魂を結ぶ絆は切れてしまったわ。つまり、 あなたは死んでしまったことになるの」 「俺が、死んだ!」 「悪霊が追ってこないのはね、あなたが死んだので、望みを達成して成仏したからよ。さ っき浄化してあげたわ。今度はあなたの番よ。良かったじゃない、あなたも成仏できるの よ」 「馬鹿な、そんなことって……」  俺はその場にうずくまった。 「自分で墓穴を掘るって、こういうことをいうのね。ま、あなたの運命はとっくに決って いたんだけど」  俺は自分を呪った、死にたくない一念で悪霊から逃げ回っていたというのに。こんなこ とで、あっさり死んでしまうなんて…… 「じゃあ、浄化するわよ」  少女はなにやら呪文を唱え始めた。 「まってくれ、俺は……」  あたりが真白に輝き始めた。  記憶が薄れていく……。 「静香……」
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