乗り合いバス


 乗り合いバス

 夜の十一時ともなれば、日本第二の都市大阪も無気味なほどひっそりと静まり返る。昼間、あんなにもジリジリと照りつける真夏の灼熱の太陽も、地平線のはるか遠方地球の裏側にあって、今はうって変わった雲一つ見えない全くの闇となる。恐ろしいほどの静寂。辻を吹き抜ける夜の風は生暖かく、草木は眠ったように暗く押し黙っている。淡い光を投げかける夏の銀河は霧の中にその輝きをかき消され、道路を時折走る車の列もテールライトの尾を引いて、闇の中へと侘しく流れて消えていく。そんな夏の夜、歩道を若い二人の男女が、せかせかと帰路を急ぐ姿があった。
「かなり遅くなったわね」
 と、女が言った。まだ二十歳ぐらいのその女は、おせじにも美人とは言えないが、ショートカットのよく似合う活発そうな足取りで男の左側を歩いていた。男の方はと言うと……。これは彼女よりも二歳ほど年上ということにとどめておく。
「ちょっと居座りすぎたかな。君の家の人は心配しているだろうなあ……」
「一応。遅くなりますって、電話はしておいたんだけど……。それに、こんなに遅く帰ることなんて時々あるもの」
「時々? しかし、もう十一時を回っているぜ。いくらなんでも遅すぎだよ。バスだってもうないよ」
 と、目に入ったバス停留所の運行表と自分の腕時計を見ながら言った。
「そうね。あと二十分も早ければ最終便に乗れたのに、おしいことしたわね。どうする?」
「どうするったって、バスがないのなら歩くより仕方がないじゃないか」
「歩くの? いやよ。だって、家まで三十キロはあるのよ。タクシーに乗りましょうよ。割り勘でいいわ」
「タクシーは高いぞ。この時間帯なら割り増し料金を取られるよ」
「そんなことばかり言ってないで、とにかくタクシーを早く捕まえましょう。さっきから私は蚊に刺されっぱなしで、このままだと身体中の血を吸われてしまいそうだわ」
「ドラキュラさんは、若い女の子ばかり襲うからね」
「馬鹿!」
 その言葉を言うが早いか、女は男の左腕を力強く抓った。
「痛いなあ。何も抓らなくてもいいじゃないか。ああ、痛いなあ」
 そう言いながら、抓られた箇所をさすっていたが、
「しかし、なかなかタクシーが来ないな。ここはタクシーは通らないのかな。もう少し大通りに出てみようか」
 と、男が言った時だった。
「あ! バスがきたわよ。ほら、あそこ」
 女が叫ぶような声を出した。
 男は女が指差す方向からバスがこちらに向かって近づいてくるのを確認したが、すぐに気がついたように、
「おかしいな。最終便はとっくに出てしまっているはずなのに……。何かの事情で遅れてしまったんだろうか……。まさかこんな時間に遅れるようなことが起きるわけないし、臨時便のはずもあるわけがない。とすると……」
 男はなおも考え続けようとしたが、バスが二人の前に止まり、女の急き立てる声もあって、訳の判らぬままに乗車した。そしてバスは、ほどなくして静かに夜の静寂の中へと走り出した。
 バスが幾つかの停留所を過ぎたころだった。
「何だか、このバスの中がおかしいわね」
 男が女の言葉によって、バスの中の異様な雰囲気をはっきりと再認識したのはこの時である。他の乗客は、無気味なほど押し黙っていて、声一つ物音一つ立てずに、バスの揺れにまかせて静かに座っている。しかも不思議な事には、バスはほとんどエンジンの音すら立てずに、夜の静寂を縫って走っていくのである。そして乗る客や降りる客もいないのに、時折停留所に停車してドアを開閉したかと思うと、再び音もなく走り出すのである二人が乗車してからの客の顔ぶれは変わっていない。奇妙なものである。
 男は、乗客の顔を見回して、ぎょっ! となった。彼らの表情はすべて活気を失い、その姿勢も力をなくして生の息吹がまるで見られなかった。まるで死人のようにそこに座っていた。
 この時、男の全身に鋭い悪寒が閃光のようにすばやく走り、身体が硬直していくのが自分自身はっきりと感じ取っていた。
 死相がバスの中を漂っていた。
「わたし……なんだかこわいわ」
 女もまた、このバスの中の恐ろしいくらいの異様な気配を感じ取っていたのか、震える声でそう言うと、男に女の体臭が感じ取られるくらいまで擦り寄ってきて、その上を握り締めた。女には、現在このバスの中を覆っている異様な気配、そして得体の知れない強烈な力場に耐えることができないようで、男のそばにいるということだけが、唯一の心の支えであった。
 汗が止め処もなく流れて、身体が水分を欲しがっていたが、二人はそのようなことに気づくわけもなく、シャツは汗でじっとりと湿っていた。
 男は、いつまでもこの力場の中にいることができないと感じて、というよりも本能がそうしなければいけないと感じて、女を促して席を立って降りる合図のボタンを押して、前部の降車口へと向かった。
 その足は鉛のように重く感じられ、女は男に手を引かれてやっとのことで降車口にたどり着いたという風である。精神はほとんど完全に混乱し、もうこれが限界であるかのようであった。男も例外ではなく、それほどバスの中に充満する力場は耐えがたくなっていたのだ。
 やがてバスは次の停留所に近づいたが、停車せずにそのまま通過した。
「運転手さん。どうしたんです……。降ろしてくださいよ。停車の合図が鳴ったでしょう
 男はどもりながらも抗議したが、運転手は振り向きもせず、男の言葉が聞こえなかったかのように、平然としてバスを走らせていた。
 男は再び抗議しようとしたが、声になって出ないのだ。バスの中の力場はすでに最高潮に達していて、男の声を封じてしまったのだ。しかも身体を動かそうにも動かせず、身体の動きさえも封じられてしまっていた。
 まさしく最高潮に達していた。
 その時であった。
 バスが交差点に差し掛かった時に、大きく揺れたかと思うと、バスがガードレールに激突して、その衝撃で降車口の扉が開いて、そばにいた二人は外に投げ出されて、人気のない路上にもろにぶつかりそのまま気を失ってしまった。
 やがて意識を取り戻した男は、そばに倒れている女を抱き起こし、
「怪我はないか?」
「ええ……。たいしたことはないわ。ちょっと膝をすりむいただけよ」
 と女は、服についた泥をパンパンと叩いて落としていた。
 あんな大事故にあったのだから、捻挫か骨折あるいは死んでいたかも知れないのに、膝をすりむいただけとは信じられなかった。
 とにかく無事でよかった。
 そう思いながら、二人はバスの方を見たが、ガードレールに激突して滅茶苦茶になってしまっているはずのバスが、そこになかったのである。
 目を疑ってみた。
 事故にあったのだから視神経に支障をきたしかのかも知れない。
 しかし何度目をこすり凝らしてみても、バスは影も形もなく、ガードレールさえ傷の一つもなかった。
 二人が乗っていたはずの、そして幾人かの乗客を乗せたバスは、忽然とまさに神隠しのように消え去ってしまっていたのである。
 後には、夜の静寂の中に呆然と立ち尽くす二人の影があるだけで、夜の闇もますます深くなっていくばかりであった。

 後日。その事件のあった交差点近くの交番で聞いた話であるが、今から丁度十二年前のその月日の夜に、この路線バスの最終バスが交差点を通りかかった時に、左翼から信号を無視して疾走してきた長距離大型トラックがあり、バスの運転手はこれを避けようとしたが、時すでに遅く、大型トラックはバスの横腹に衝突して、バスはその勢いでガードレールに激突して大破炎上したという。乗客のほとんどが死亡し、バスの降車口にいたカップルだけが、奇跡的に助かったという。
 なおバス会社は、事故のあった便はそれ以降運行していないそうである。
 別の人に聞いた話であるが、事故のあった月日の深夜、雲一つない闇夜の晩に、人気のない路上をほとんど音を立てずに走るバスを幾人かが見たと言うことである。

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