純愛・郁よ
(十九)母親は語る
私は、五人目の子供を宿しました。
これまでの子は全部男の子。今度こそ女の子が欲しいと思っていました。
胎教や食事療法などあらゆることをやってみました。
しかし産まれた子は男の子。
しかも妊娠中に子宮に腫瘍が発見されて全摘出を受けて、これ以上子供を産む事が
できなくなりました。
がっかりし諦めきれなかった私は、その子に郁という女の子みたいな名前を付け、
あまつさえ女の子の服を着せて、慰めていました。ご近所の方々にも女の子として紹
介しました。
少しずつ郁は成長していきましたが、どうもおかしな態度を示すようになったので
す。父親が買ってくる、男の子用の玩具には目もくれずに、お人形とかぬいぐるみば
かりで遊ぶようになっていました。幼稚園にあがる頃には近所の女の子と一緒にママ
ゴトなどして遊び、男の子とは決して遊びませんでした。子供用の人格判断の本で、
その性格を調べるとやさしくほがらかな女の子という結果がでました。女の子の衣服
を着せていたせいかなと思いましたが、幼児がそんな事ぐらいで女の子の心を持つは
ずがありません。
念のために心療内科で専門的に調べてもらっても、やはり女の子の精神を持ってい
ると診断を下されました。その先生は、何か心あたりはあるかといろいろ調べて下さ
り、胎児にある時に女性ホルモンが異常分泌された時、女性脳化される症例を示して
くれました。そこではたと子宮筋腫全摘に行き当たって、その手術を受けた病院に保
存されていた子宮を調べた結果、腫瘍が女性ホルモンを異常分泌して、胎児だった郁
の脳を女性化させていたことが判明したのです。
性同一性障害という診断がくだされました。
遺伝子や生殖器は男の子だけど、女の子の心を持って産まれた子供。
それが郁だったのです。
もはや、男の子として育てることは不可能になりました。
無理に男の子として育てれば、心に障害を引き起こすことになります。
私達家族や親族は、相談して女の子として育てることにしました。
性転換手術についても協議されましたが、まだその年齢では早すぎるということで
した。思春期を過ぎてから、本人の意思で決定した方が、より間違いないという判断
でした。思春期になって、本来の男の心を取り戻す可能性もあったからです。実際そ
ういう症例の報告もされているそうです。
私達は、女の子の性格を示している限りは女の子として育てました。男の子に戻る
可能性を考慮して、女性ホルモンの投与や、睾丸摘出などの身体を改造することは一
切しないこと。
もちろん男の子が女の子として生活するのですから、その辺のところの注意点を郁
に教えこみました。
おちんちんがある通り男の子なんだけど、女の子の心を持っているんだよ。だから
おちんちんを人に見られないように、他人の前では絶対に衣服を脱がない事、出来る
だけ女の子同士で遊ぶんだよ。と言い聞かせました。男の子同士だと川遊びなど衣服
を脱いで遊ぶことが多いからです。
性同一性障害者である診断書を提示して教育委員会を説得して、幼稚園・小学校そ
して中学校を女の子として通学させました。男の子であることがばれる、健康診断は
保健所で一人こっそり実施します。水泳の授業も特別に免除してもらい、他の生徒に
は健康上の理由ということにしました。
思春期に入り、一向に男の子への回帰が見られません。
郁が、胸がないのを悩みはじめたことを知りました。当然でしょうね。
私達は、中学に上がるのを期に、郁に女性ホルモン投与を持ち掛けました。その効
用と同時に副作用、乳房だけなら傷痕は残るが全摘出とテストステロン投与である程
度男に戻れる事、すべての情報を与えて、判断を委ねました。
郁は、女性ホルモンを投与する事を、女性化への道を決断しました。
やがて高校生になりました。身も心もすっかり女性化してしまっています。
三年生になったある日、好きな男性がいると告白されました。
そして性転換手術したいと言い出しました。
いつか言い出すと思っていましたが、一挙にそこまでやるのは高校生ではまだ早過
ぎます。まだまだ考慮の余地が残っています。
私達は、その好きな男性を連れてきなさい、一緒に相談して決めましょうと。
どうせいい加減な気持ちで付き合ってるのでしょう。来るはずがないと思っていま
した。
そして、郁が連れて来た、まだ大学三年生の男性。
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