純愛・郁よ

(十二)授乳  ある日。  仕事から帰ると、郁が乳房を咥えさせていた。一生懸命にそれを吸っている茜。 「おい! おまえ、お乳が出るのか?」 「う、うん。なぜだか、わかんないけど……。冗談のつもりで、乳首を含ませていた の。もちろん最初はでなかったわ。でも、こうしていると気持ちいいから、毎日して たらある日突然出るようになったの」 「吸引の刺激で、プロラクチンが分泌されるようになったのかな……」  郁は子供好きだ。近所の子供達と遊んであげているのも良く見掛ける。それなりの 母性本能を持っている証拠だ。その娘にお乳を飲ませたいという一心が、奇跡をうん だのだ。 「ねえ……。この娘、何とかあたし達の、子供にできないかなあ……」  郁は真剣のようだ。  お乳が出るようになって、いっそう母親としての感情が出来上がっている。  もはや、郁から茜を引き離す事は不可能だろう。 「やってみるよ。弁護士とかに相談してみよう。養子にできる抜け道がどこかにある かも知れないから」 「この娘、あたし達のために、神様がくださったに違いないわ。だから、お願い」 「わかっているよ。俺だって二人の子供が欲しいからね」 「ありがとう、武司。愛しているわ」  隣の奥さんは、郁が実家に帰って出産し、戻ってきたと信じ込んでいる。結核の発 症と同時に妊娠していたということにしてある。なにせお乳が出るのだから、疑いよ うがない。出産しなければお乳は出ないと思われているからだ。乳牛だって、出産さ せて牛乳をとる。  毎日のように赤ちゃんを話題にして盛り上がっている。 「茜ちゃんは、母親似ね」 「でしょう。あたしもそう思います」  よく言うよ。  茜が目を覚まして泣き出した。 「ミルクの時間だわ」 「わたしの部屋に、いらっしゃいな。暇だから、茜ちゃんの世話しながら、お話しし ましょう」 「そうですね。お邪魔します」  おいおい。ここに旦那がいるのに放っておくのかよ。  しかし郁の意図は判っている。  近所付き合いにおいて、郁と茜の母娘の絆がどれほど強いかを、近隣の主婦を味方 につけて証明してもらおうという魂胆らしい。  いずれ茜が捨て子だったことが表沙汰になり、茜は児童相談所などの公的機関に引 き取られるだろう。もし茜を捨てた者が名乗り出なければ、その親権をめぐって訴訟 を起こすつもりなのだ。育ての親としての郁の一生懸命な姿を主婦達に証言してもら うことができれば、可能性がないでもない。  茜の泣き声は止んでいた。  郁は今頃、隣の奥さんの目の前で、乳房をもろ出しにして授乳している頃だろう。  隣の奥さんは、郁とは姉妹のように仲がいいし、茜に授乳しているところを目の当 たりにして、一番の味方になってくれそうな気がする。
     
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