純愛・郁よ
(十)家出
翌朝、茜とともに郁がいなくなった。
「家出か。まったく……。何考えてんだか……」
俺は会社に急用で休むと告げて探しに出かけた。
茜を連れて、どこへ行く?
一人なら実家に戻ることもできるだろうが、茜を連れていれば、家族が警察に届け
るのは必至だ。だから実家には帰れない。
別れると言い出され、実家にも帰れないと悲観すれば、茜と心中するかも知れない。
早いとこ探して連れ戻さなければ。
立ち寄りそうなところを、片っ端から探した。
散歩道の公園。二人でよく利用した喫茶店やファミレス。
ステーション。駅前広場。美術館。
いつもの花屋や本屋には、立ち寄ったり、店の前を通らなかったか尋ねた。
「奥さん、どうかされたんですか?」
そう聞かれるのは承知の上で……。
やがて日が落ち、夜となった。
思い当たる箇所はすべて探しまわったが、姿を見出す事はできなかった。
もしかして戻ってきているのではとアパートに帰ったがいなかった。
「まいったなあ……。捜索願いを出すわけにいかないからなあ……」
さらってきた子供を抱いて家出しているのだ。仮に警察が動いて郁を探し出しても、
子供を取り上げられてしまう。よけいに郁を悲観させる。
時間だけが無意味に過ぎていく。
ドアの外で赤ん坊の泣き声がする。茜に違いない。
急いで玄関へ行きドアを開けると、茜を抱きうなだれた郁が立ち尽くしていた。
「やっぱり、あたし……。行くとこない……。ここしか。でも茜とも別れたくない」
茜を腕に抱き、涙ぽろぽろ流している郁。
「いいから、入れよ」
俺は肩を抱くようにして、やさしく迎え入れた。
黙って入ってくる郁。
「その娘、お腹空いてるんじゃないか。ミルク入れてやりなよ。茜はおれが抱いてい
てやるよ」
「うん……」
茜を俺に預けて台所に立つ郁。
とはいっても茜が俺になつくはずもなかった。
泣き止まない茜。
最近、親が泣き止まない赤ん坊に腹をたてて、虐待の末に殺してしまう事件が多発
している。その親の気持ちが判ったような気がする。
台所の方で、ちらちらとこちらを見やりながら、粉ミルクをお湯で溶いて、哺乳瓶
にいれて戻ってくる。
「かして」
「ああ……」
俺から茜を受け取り、抱きかかえると、あれほど泣き続けだった茜がぴたりと泣き
止んだ。
「ほう……」
感心した。
茜は本能的に母親かそうでないかを区別しているようであった。ずっと郁に抱かれ
ていたから、抱き方や声や匂いといったことを覚えているのだ。
郁が、哺乳瓶を振って良く混ぜ、頬にあてて適温がどうかを確認している。
その間、茜はじっと郁の顔を見つめている。
明らかに茜は郁を母親として感じているようだった。
哺乳瓶を咥えさせると、一心不乱に飲みはじめた。
「よほど、お腹がすいてたんだな」
「うん……」
十分飲み終えて満足した茜は、安心したように郁の腕の中で寝入った。
隣室にある布団に寝かしつける郁。
「座れよ」
「うん……」
食卓に向かい合って座る。
きちんと正座し、裁判の判決を受けるような表情の郁。
「茜を、どうしても育てたいんだな」
「うん……」
家に入ってからずっと、郁はほとんど「うん」としか言わない。
「今後、茜の世話は大変だし、社会的な問題が山積みだ。それでもいいんだな?」
郁は、うなだれたまま黙っている。うんとは言わなかった。
茜の方は、郁が世話するからいいとして、社会的な問題の方は、結局俺の方の責任
になる。なんたって郁は専業主婦だもんな。
それが判っているから、答えられなかったのだ。
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