梓の非日常/第三章 ピクニックへの誘い
(三)執務室にて  真条寺家、執務室。  壁際の机に座り報告書に目を通している麗香。窓際にはさらに一回り大きな机があ り、その上には大きなパンダのぬいぐるみが、無造作にでんと置かれてある。執務室 には似つかわしくない情景ではあるが、そのことを笑う者がいれば、たとえ企業の社 長だろうとグループの大幹部であろうと、そばにいる麗香から容赦なく更迭を言い渡 されるであろう。  なぜならその机は、真条寺グループの現ナンバー2である梓のものだからである。  それは五歳の誕生日に絵利香から贈られたパンダであり、梓が非常に大切にしてい るものである。麗香以外の者が梓に断りなしに触ったりすると、いきなり不機嫌にな るから要注意である。  その机は、梓の執務机であると同時に勉強机でもある。机の上のブックスタンドに は、広辞苑・国語辞典だの、外国人向け英語解説版英和・和英辞典だの、漢字の読み 書きなど日本語のあまり得意でない梓の必携勉強グッズが置かれてある。麗香に判ら ないことを教えてもらうため、この執務室を勉強部屋にしているのだ。勉強に疲れ気 分がいらいらしてきた時、逆に非常に嬉しいことがあって気分が高揚している時、パ ンダを抱いていれば自然に心が落ち着いてくるという。要するに梓がパンダを抱いて いる時は、情緒が不安定な状態にあるので、込み入った用件を切り出す際には、その 表情をよく見極めてからにしなければならない。これは五歳の時からずっと続いてい る習慣なので、そんな女の子のデリカシーを理解できない者は、真条寺グループの大 幹部にはなれないだろう。その点十年以上もの間世話役をしてきた麗香には、梓の微 妙な表情の変化も見逃さず、その心変わりを完全に理解できる眼力が備わっている。  机の上の電話が鳴りだす。 「お嬢さまからね……」  その電話には、ブロンクス本宅執務室とのホットラインと、梓の持つ携帯電話から のコールを除けば、外線からは直接掛けられないようになっている。  一般の人が屋敷に電話を掛ける場合、一旦屋敷内にある電話交換センターに繋がる ことになっている。屋敷内には五十台以上の電話があるためだ。  液晶画面にも間違いなく梓の名前が表示されている。その電話を取る麗香。 「麗香です」 「麗香さん、お願いがあるんだけど、いいかな」 「どうかなさいましたか、お嬢さま」  電話口の向こうから、依頼内容を告げる梓の可愛い声が届く。 「蓼科の研修保養センターですね。お嬢さま方を含めて三十一名の予約。利用代金の 支払いはいかが致しましょう」 「全部、あたしにつけといてくれるかな」 「かしこまりました。確認を取りますので、しばらくお待ち願えますか? 折り返し 連絡致します」 「うん。待ってる。じゃあね」  梓が電話を切るのを待ってから、電話を切る麗香。引き続いて研修保養センターに 連絡を取る。 「支配人をお願いします。わたしは、真条寺梓さまの世話役の竜崎麗香です」 「真条寺……お嬢さまの?」 「そうです。至急です」 「少々お待ち下さいませ」  しばらく間があって、女性の声が却ってきた。 「お待たせ致しました。副支配人の神岡幸子です。梓お嬢さまに関しましては、私が 担当させて頂きます。ご用件をどうぞ、麗香さま」 「VIPルームは連休中は明いていますか」 「はい、明いております。お嬢さまがお使いになられるのですね」 「そうです。お嬢さまと絵利香さまがお泊まりになります。準備しておいてくださ い」 「かしこまりました。絵利香さまというと篠崎重工のご令嬢さまですね。他にはあり ますか?」 「続きの部屋を二十九人分確保してください。お嬢さまのクラスメートで、親睦旅行 をされるとのことです。お嬢さまがそれぞれのお部屋を行き来なされると思いますの で、他のお客さまに会わないように、できればワンフロア貸し切りにしてください。 できますか?」 「確認して、十五分以内に折り返し連絡いたします。お屋敷の執務室でよろしいです ね」 「はい。よろしくお願いします」
     
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