■はじめに
超高齢社会を迎えつつある我が国においては、認知症患者の数が年々増加してきており、介護にたずさわる患者家族の身体的・経済的負担、さらには介護保険などの社会が負うべき責任の増大が大きな問題となってきている。一方で、認知症と診断された患者のなかに、外科的治療によって症状の改善をみる一群の疾患のあることが知られている。これらの疾患のうち、最近“治療可能な認知症”として注目されているのが正常圧水頭症である。 “治療可能な認知症”との文言が若干強調され過ぎの感は否めないが、本疾患を的確に診断・治療することにより上述の患者家族並びに社会の負担を軽減することが可能になるものと期待されている。
■歴史的背景と今日の問題点
正常圧水頭症(Normal Pressure Hydrocephalus、以下NPHと略す)は決して新しい疾患ではなく、その歴史は1965年米国の医師アダムス、ハーキムらの報告にさかのぼることができる。彼らはこの報告のなかで、精神活動の低下(痴呆症状)、歩行障害、尿失禁を呈する高齢者のうち、著明な脳室拡大を認めるにもかかわらず、腰椎穿刺で測定した脳脊髄圧が180mmH2O以下と比較的低く、しかし、髄液短絡術(シャント手術)を行うと上記の症状が著明に改善する患者のいることを指摘した。以来、NPHは“治療可能な認知症”として注目されるようになったが、一方で精神活動の低下、歩行障害、尿失禁は老人性痴呆にもみられる症状であるため、老人性痴呆とNPHをいかに鑑別するかが問題となってきた。老人性痴呆の患者でも、脳萎縮にともなって脳室は拡大してくるが、シャント手術を行っても症状が改善することはない。したがって、老人性痴呆とNPHを鑑別すること、すなわちシャント手術が痴呆症状の改善に有効かどうか判定することは意外に難しく、事実過去においてはシャント手術の適応のない症例に手術が行われたという事例もあった。このような問題点を解決すべく、近年我が国と米国において本疾患に関する診断・治療のガイドラインが相次いで刊行された。
■発生機序
何らかの原因で髄液の循環不全が生じ、その結果NPHが発症すると考えられているが、その原因が明らかな場合とそうでない場合がある。原因不明のものを特発性NPH、原因が明らかなものを続発性NPHと呼ぶ。続発性NPHの原因としては、くも膜下出血、頭部外傷、髄膜炎などがあげられる。特発性NPHの患者では、最初に極軽度のくも膜炎が起こり、それに続発するくも膜の癒着や肥厚さらには線維化が髄液循環障害を惹起し、水頭症が発生するものと考えられてきたが、最近では髄液循環障害だけでなく脳実質にも異常のあることが分かってきた。すなわち、脳動脈硬化を基盤にした微小な脳梗塞などの病巣が存在すると、脳室周囲組織の弾力性が低下し、わずかな髄液循環障害であっても脳室拡大が起きやすくなり、水頭症病態の進行が起るのではないかと考えられている。続発性NPHのなかでは、破裂脳動脈瘤によるくも膜下出血後のNPHの頻度が高いが、幸いなことにこれらの診断は容易であり、またシャント手術の治療予後も良好である。
■頻度
老人性痴呆やNPHの正確な発生頻度は、明らかでない。一般的に、65歳以上の高齢者の4〜5%が重度の痴呆症、10%が中等度の痴呆症とされおり、これら痴呆症と診断された患者の5〜6%が特発性NPHであると考えられている。特発性NPHの好発年齢は60歳以降であり、発生頻度に男女差はない。
■症状
NPHでは、精神活動の低下(痴呆)、歩行障害、尿失禁の三つが主症状(三徴候)とされている。初期の段階では物忘れ、次いで自発性の低下、無関心、日常動作の緩慢化などがみられ、さらに進行すると無言無動といった状態になる。歩行障害はNPHの初発症状であることが多く、一直線上を綱渡りのように歩けなくなるのが特徴的である。症状が進行すると、立位や座位を保てなくなる。尿失禁は、三徴候のなかで最も遅くに出現することが多い。
■診断
上記の三徴候のいずれか一つあるいは複数を認め、頭部CTやMRIで脳室の拡大(Evans index 0.3以上)が確認されればNPHを疑うことになるが、NPHでは腰椎穿刺で測定した脳脊髄圧は200mmH2O以下と正常範囲である。また、特発性NPHでは、髄液の細胞数や蛋白などの所見に異常を認めることはない。脳室拡大に関しては、老人性痴呆でも脳萎縮にともなって脳室が拡大してくるので、NPHとの鑑別が問題になってくる。そこで、腰椎穿刺により約20〜40mlの髄液を排除して、歩行障害などの症状の改善がするかどうかを試す検査(髄液排除試験あるいは髄液タップテスト)を行う。髄液排除により症状が改善した患者(髄液排除試験陽性)では、シャント手術の治療効果を期待することができる。ただし、髄液排除試験が陰性であっても、そのなかにはシャント手術によって症状の改善する患者が潜在的に存在しており、いわゆる偽陰性例が問題となってくる。このような偽陰性例を少なくしようと、腰部くも膜下腔にドレナージチューブを挿入・留置して髄液排除を48〜72時間持続的に行い、症状の変化を観察する髄液ドレナージ試験を行う場合もある。我が国のガイドラインでは髄液排除試験、米国のガイドラインでは髄液ドレナージ試験を、その診断のフローチャートの中心に据えている。前者には比較的簡便に施行できるという利点がある一方で、偽陰性例が少なからず存在するという問題があり、後者ではより精度の高い陽性率を期待することができるものの、ドレナージチューブを留置しなければならず、それにともなう感染などの問題点が指摘されている。その他にRI脳槽造影・CT脳槽造影、頭蓋内圧測定、脳血流測定などの検査が、NPHを診断するために従来より行われてきたが、頭蓋内圧測定以外は充分なエビデンスレベルを有するものはないとされている。頭蓋内圧測定についても文献上充分なエビデンスレベルは証明されているが、測定方法によりそのデータの解釈が異なるなどの問題もあり、本邦においてはNPHの診断法としてそれほどは一般化していないのが現状である。
■治療法
NPHの治療は、シャント手術が唯一の方法になる。ただし、シャント手術が有効な症例であっても、手術の時期を逸すると脳の障害が進行してしまい、充分な治療効果を期待することは難しい。早期診断、早期治療の重要性が、改めて強調されるべきものと考える。シャント手術にはいくつかの方法があるが、通常は脳室腹腔シャント(V-P シャント)ないしは腰部くも膜下腔腹腔シャント(L-P シャント)が選択される。NPHに対するシャント手術では、シャントシステムの選択が他の水頭症に比べ難しく、手術後もシャントの機能を慎重に観察する必要がある。症状の改善を得るためには、ある一定量の髄液を排出させる必要があるが、髄液の排出が過剰になると硬膜下水腫や血腫が発生する。このような合併症を防ぐために、最近では体外から磁石を使って圧を変更することができる圧可変式バブルを用いることが多い。
■予後
くも膜下出血後のNPHに代表される続発性NPHでは、一般的にシャント手術の有効性は高い。特発性NPHでは60〜70%前後の患者において、術後になんらかの症状改善がみられるとされている。ただNPHは高齢者に好発するので、シャント手術によって症状が改善しても、その後脳血管障害などを合併して改善した症状が悪化するといった経過をたどることもある。また、シャント手術によりすべての症状が等しく改善するものではない。最も改善しやすいのは歩行障害、次いで尿失禁であり、痴呆症状は三徴候のなかで最も改善しにくい症状である。
■おわりに
シャント手術によるNPH の治療成績を向上させるためには、早期診断、早期治療が重要である。三徴候のいずれか一つでも症状があれば、NPHを疑って専門医への受診を促すことが肝要である。
難治性の水頭症に関する調査研究班から
正常圧水頭症 研究成果(pdf 29KB)
この疾患に関する調査研究の進捗状況につき、主任研究者よりご回答いただいたものを掲載いたします。
この疾患に関する関連リンク
iNPH特発性正常圧水頭症診療ガイドライン(pdf 9KB)
特発性正常圧水頭症診療ガイドライン
情報提供者
研究班名 神経・筋疾患調査研究班(難治性水頭症)
情報更新日 平成19年7月23日
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