梓の非日常/第九章・生命科学研究所
(一)生命科学研究所  生命科学研究所付属芳野台病院というプレートが掲げられたゲートをくぐるファン タムVI。 「久しぶりね。ここに来るのは」 「そうでございますね」  今日は、ハワイでの航空機事故の後遺症がないかを、確認する為にやってきたのだ った。二三日入院して念入りに診察がされることになっている。  病院の敷地に併設されて生命科学研究所がそびえている。  病院の玄関前に停まるファンタムVI。  研究所の方には重症患者のICU(集中治療室)しかないので、病院の方で入院手 続きすることになっている。 「受付けして参ります」 「研究所の方、ちょっと見てくるね」 「研究所員の邪魔にならないように気を付けてください」 「わかった」  と確認しあって、麗香は病院内へ、梓は研究所へと向かった。  生命科学研究所。  以前病院の屋上から垣間見たことがあるだけだった。  陽電子放射断層撮影装置(PET)や、核磁気共鳴断層撮影装置(MRI)などの 最新設備を誇る生命科学研究所には、近隣の病院からも診断のために患者が運びこま れてくる。ただし通常として、交通事故現場や各家庭などから救急患者が直接運ばれ ることはない。ここはあくまで研究施設であり、各救急医療センターが手の施しよう のない重症患者や、PETなどの診断を必要とした場合、研究対象としての治療を行 うことを了承した場合に限って引き受ける。  なお、日本で最初の倫理的な性転換手術が行われた埼玉医大総合医療センター病院 も、車で十分としない距離のところにある。  広大な敷地にそびえ立つ研究所だが、その地下には二万キロワットもの巨大な超伝 導蓄電実験施設があるという。ただしこのことは一切公表されてはおらず、梓だけに 極秘理に知らされているだけだった。 「あれ?」  梓の振り向いた先には、見知った女性がいた。  それはかつての自分、長岡浩二の母親だった。  すっかり忘れ掛けていたが、まだ記憶の端に残っていた。  交通事故の後、退院した際に母に連れられて長岡邸を見舞ったあの日。自分の記憶 にある長岡浩二はイメージだけだと悟ったあの時のこと。  もはや自分自身の母親という意識はなかった。今の梓の母親は渚一人、母娘の絆も しっかりと築かれていた。 「なんでここにいるのかしら……」  長岡母は(渚と紛らわしいからこう呼ぶことにする)玄関から施設に入っていく。  どうも気になるので後を追ってみることにする。 「ええと……どこに行ったかな……。あ、いた」  丁度玄関から駐車場添いの通路の先の角を曲がるところだった。  あわてて後を追い、角のところまで来たが、 「あれ、いない……?」  その先の通路にはいくつかの研究室の扉と階段があった。  研究室に入ったか、階段を使ったか?  研究室に入るわけにはいかないし、階段は上か下か判らない。広大な施設だから下 手に探しまわっていたら迷子になってしまう。 「うーん……。ここに来ているということは、家族に何かあって入院しているのかな あ……」  もはや縁は切れているとはいえ、やはり気になるところだ。  麗香に頼めば調べてくれるかも知れないが、どう説明する? 麗香は梓の人格が入 れ代わっていることを知らない。そのことに気づいたのは幼馴染みの絵利香だけだ。 「あの……。何かご用がおありでしょうか?」  後ろから声を掛けられた。  振り返るときれいなお姉さんが微笑みながら立っていた。受付係のネームプレート を胸に付けていた。そういえば受付けを通らずに入ってきたから、追い掛けてきたの というところ。 「あれ? あなた……もしかしたら、梓お嬢さま?」 「はい、そうです」  研究所の者なら誰しも梓の顔を知っている。いや、知っていなければ研究所員とは 言えないだろう。研究所概要書には写真入りで載っているし、ここの所長室や会議室 にも額入りで飾ってあるからだ。 「やっぱりでしたか。今日は検査でお見えでしたよね。ですが一応付属病院の方で手 続きを……」 「ああ、いいの。手続きは麗香さんがやってくれているから。それより、さっきここ を四十代くらいの女性が通ったでしょう?」 「長岡さまかしら……?」 「そうそう、その長岡さん。ここには何の用で来ているのかしら」 「申し訳ございません。その件に関しましては、守秘義務によって来院者さまのこと は申し上げる訳には参りません。例えお嬢さまであってもです」 「そうなの……残念ね」  確かにその通りなのだろう。医師や類する研究者が守秘義務を守らなければ、患者 は安心して身を任せられない。  長岡母のことは気になるが、今の段階ではどうしようもない。  忘れなくちゃとは思うのだが……。
     
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