誰もしらない能登半島
【はじめに】

 年賀イラストを描くために日の出の写真を探していると、能登に旅したときの写真が紀行文とともに出てきた。
 ひさしぶりに読み返してみると、結構おもしろくて、
「へえ、こんなこともあったんだなあ」
 という感慨で胸が一杯になった。
 それは今からおよそ三十年くらい前の若干二十の頃の紀行文です。
 時は1975年夏の旅。

           「誰もしらない能登半島」

(一)能登へ

 津幡に夜行列車は到着した。
 プラットホームに降り立つと、潮の香がどこからともなく漂ってくる。
「日本海か……」
 荷物を置きタバコに火をつける。
 立ち昇る紫煙が構内をおおう朝靄に融けこんで微妙な雰囲気をかもしだしている。
 午前5:46分。
 津幡の町はまだ夢の中にあった。
 七尾線に列車が滑り込んできた。
 荷物を拾い、列車の人となる。
 私と一緒に降り立った人のほとんどが、同じ列車に乗り込んでいた。人々は自分の席を確保すると、夜行列車の夢の旅の続きを見るかのように惰眠をむさぼりはじめていた。
 空は上天気で青く澄み、関東地方では2週間以上降り続いていた雨も、日本海側のこちらでは嘘のように晴れ渡っていた。はたして今日も太平洋側では雨が降っているのか知るすべもない。
 開いた窓から潮の香を含んだ風が頬をなで、すがすがしい気分にさせられる。夜行列車の中ではあれほど眠くても眠れないという状況にあったというのに、ここへきてすっかり目が冴えてくるのは、車窓から時折かいまみる日本海が朝の光に輝いて、私の目をリフレッシュしてくれるからだろうか。

 七尾駅に着く。
 ここからは船便を使うことになっている。七尾港で船着き場と発着時間を確認すると、時間までの間七尾めぐりをすることにした。
 一旦七尾駅に戻ってからガイドブックにある小円山公園をめざす。
 小円山公園は名の通り、ちょっとした小山の中腹に造られた公園である。ここからは七尾湾が広く眺望され、セメント工場で発展してきた七尾の町も眼下にあって、眠りから覚めたばかりの町が活気を取り戻そうとしていた。
 園内には観光客の一人も見えず、前田利家の居城跡を示す碑と、桃山期の画聖長谷川等伯の出生地碑がひっそりと建っていた。所々にはベンチが置かれてあって、一ヶ所屋根付きの休憩所もあった。
「野宿するには好都合だな」
 宿の手配を一切していなかった。
 今回の旅の目的は、能登半島の灯台を写真におさめることであった。それも夕焼けに暮れゆく姿とか、朝日にきらめいて輝くさまを撮りたかったのだ。灯台といえば岬の断崖絶壁にあって、近辺に宿などないのが普通であろう。ゆえに宿を決めずに灯台の近辺で野宿するつもりでいたのだ。
 ふと見るとキャンプ禁止の立札があった。
 まるで見透かされたような気分になるが、わざわざこんな立札があるところをみると、ここでキャンプを張る連中がいたということか。
 そこを出発し港へと向かう。途中与謝野晶子歌碑、まだら碑などを見学していく。

 時刻表より四十分ほど遅れて船は出航した。
 それにしてもこの船のたよりなさはどうだろう。いわゆるポンポン船とよばれる小さな漁船に客室をのっけただけの造りで、波がくれば大きく揺れて波しぶきをあげる。よくもまあこんなボロッちい船で七尾湾を渡ろうというのだから、内心気が気でならなかった。上下によく揺れるので、船酔いするのではないかとよけいな心配もせねばならなかった。しかし、いざ出航してみるとそれはいらぬ心配であったことがわかった。出航と同時に船首甲板に上がる。まあこれは私の癖というか、電車に乗っても先頭車両運転席のすぐそばに座りたがる、幼少のころからの慣習であったのだが。七尾湾を渡る潮風が頬にあたるのが実に心地よく、実にすがすがしい気分になる。
 乗客は私を含めて十二名。サイクル野郎が二名、男二人組みと女二人組み、アベック一組みに、女三人組みそして一人旅の私であった。中でも快活そうな女性二人組みの姿が私の目に快く写った。もしも他の乗客がいなければ、
「どこまで行くのですか」
 と尋ねてみたい衝動にかられた。月並みな質問ではあるだろうが。

 ほぼ二時間ほどの船旅は、もっと彼女らと一緒に乗っていたいという欲望むなしく、宇出津港に到着した。さらに小木のほうへと向かう彼女らを乗せて船は出航していく。
 宇出津のとある食堂で三百円のカレーライスを食べる。旅行だからといって、土地名産とかの豪勢な食事をするつもりはない。
 国鉄能都駅より小木駅へとむかう。
 日和山公園からの九十九湾の眺めはともかくも、観光客の中に見知った顔を発見するのは意外なことであった。向こうもこちらに気が付いたらしく笑顔で近寄ってきた。
 ロングヘアーの女性のほうから先に声を掛けてきた。
「またお会いできましたね」
 それは船旅で一緒であった女性二人組みであった。
 ボブヘアーの女性が、首を傾げるように尋ねた。
「どうして宇出津でおりられたのですか」
「ご一緒できましたのに」
 私が特に観光地らしき所もない宇出津で、下船したのを不思議に思っていたようだ。私自身これといった目的を持って宇出津で降りたわけではない。単に時刻表を見ながら、船や電車などの発着時間や連絡時間を考慮して、より多くの場所を見学しようという考えからそうしたのである。
 彼女達も私の事を気に掛けていたようであった。
 何せほとんどが仲間づれで旅をしているというのに、ただ一人しかもナップザック一つという軽装に疑問を浮かべるのも必然だろうか。
「ところで着替えは?」
「こいつ一つです。着のみ着のままです」
 といってシャツをつまんでみせた。
「まあ! 不潔ね」
 といって彼女は笑った。
「でも一人旅なんてうらやましいな」
「そうね。私なんか親を説得するの大変だったんだから」
「誰と一緒に行くのかとか、ホテルの連絡先を教えなさいとか、うるさいのよ」
「男性と一緒なんていうと、とんでもない!」
「そうねえ」

 珠州駅に着いたときは、すでに日も暮れ掛けようとする時間であった。これから灯台に向かっても夕暮れを撮影するには遅すぎるし、不案内な夜道を歩くには心もとないので、諦めて珠州泊りにすることにした。
「さて、宿をどうするかだな……」
 思案にくれていると、客引きが声を掛けてきた。
「宿はお決りでしょうか?」
 正直に答えると、では私共の宿へと誘う。
 しばし少考してから、その宿に泊まることにした。
 客引きがペダルをこぐ自家用自転車に乗ってその宿へと向かう。
 ここ珠州では旅館の送迎には自転車が使われるらしい。
 というのは冗談であるが、こんな僻地の観光地では一流旅館でもない一般の宿が経営を維持していくのは大変で、自転車でも使わなければやっていけないというのだ。
 客が一人の時はともかく他人数の時はどうするのですか?
 と聞いてみたかったがやめておいた。こうしてチャリンコのけつにしがみついている自分を思うと情けない。その時はタクシーを使うのだろう。
 最果ての町の宿「西乃家」の菊乃間に通されて荷を降ろすと、早速風呂に入って旅の汗を流した。宿が用意した浴衣に着替えて、窓辺に腰をおろして夜の町を眺めていると、拓朗の「旅の宿」を思い出される。浴衣の君はいないが、あの女性二人組みはどうしているだろうか。日和山での思い出が呼び起こされる。
 その日の夕食は、まぐろの刺身、ニシンだかの塩焼、赤貝の照り焼き、たこときゅうりの酢の物、名のわからぬ煮魚、蒸し椀そして味噌とたくわんという献立であった。まあ港町としてはこんなもであろう。
 時刻表を確認しながら明日の旅程表を作成し、旅日記をつけてから寝ることにする。
 少し寝苦しい夜であった。

(二)禄剛崎遊歩道

 翌日。
 禄剛崎灯台は良きにしろ悪しきにしろ観光地であった。
 珠州から北鉄観光バスに揺られて、ガイドさんの話しを聞きながらうたた寝しているうちに狼煙に到着する。ちょっとした丘を登りつめると、そこが能登路最果ての地禄剛崎である。
 日本海はおだやかで、天気の良い日には遠く佐渡が見渡せるというが、あいにく今日は島影は見えず、ただ紺碧の海が横たわっているだけであった。
 海岸段丘の岸壁に建つかの灯台をカメラにおさめ、フィルムとキーホルダーを購入すると、いざ苦難の道「自然遊歩道」へと足を踏み入れた。
 しかし、予想をはるかに裏切るようなくだらないともいえる畑と断崖の繰り返しで、まったく期待はずれもいいとこであった。
「ガイドブックの馬鹿野郎!」
 私は思いっきり海に向かって叫んだ。
 ガイドブックでは、それこそ小鳥がさえずりなだらかな段丘に美しい……という美辞麗句が述べられていて、つい足を運びたくなるような文章。実際は日差しを避ける休憩所の一つすらなく、ただただ畑が続いているだけである。
 元々の予定は、この遊歩道のどこかで野宿する予定でいたのだが……。確かにこの遊歩道に足を踏み入れるものはほとんどなく、同じバスで来た観光客の一人としてついてくるものはおらず、その点では野宿にむいているかもしれない。予定が変わった以上この遊歩道コースは削除すべきだった。
 といっても来てしまった以上しようがない。ここまで来て完逐しなければ男の意地がすたる。それでもなおかつ歩き続け段丘と畑を通り過ぎると海浜へ出てくる。さらに自然遊歩道は続いており、道なりに進んで行くと急斜面の林道となる。息を切らしながらも坂を登りつめると、やがてゆるゆるとした下り坂となり、急にあたりが開けて木の浦の公営国民宿舎「きのうら荘」前に出てくる。
 ここで私は道を失ってしまう。
 さらに続くはずの遊歩道の入口が見あたらないのである。きのうら荘に入って尋ねるのもおもはゆいし、人に道を尋ねるというのは私の性分に合わないのである。地図と太陽と腕時計さえあれば、どんなところでも旅をする自信がある。道路沿いに降りていくと木の浦海中公園であるが、ここで遊ぶつもりはなく遊歩道入口を求めて探し回るが、やはりどうしても見つからない。そうこうするうちに時間だけが過ぎていく。いっそのことバスに乗っていくかという思いが頭をよぎる。ガイドブックの概略地図を睨みかえしてみる。きのうら荘のほうに戻って、もういちどあたりを見回してみる。
 あ!
 あんなところにあるじゃないか。遊歩道入口の案内。
 しかし、道案内のような大切なことを、こんな小さな板切れに書いてんじゃねえよ。もっと大きくはっきりわかるようにしろよ!
 憤慨した私であるが冷静さを取り戻して、きっとこの先もたいした景観が期待できそうにないだろうと判断して、遊歩道を断念してバスで行くことにした。ガイドブックでは岩礁地帯をいくスリル満点のコースと書いてはあるが……。
 万感の思いを胸にバス停に上がった。
 定刻二十分遅れでバスが来た。

 バスのタラップを上がると目を被いたくなるような光景が飛び込んできた。
 女、女、女、女。
 バスは満員の女性客で一杯であった。
 一斉にそそがれる女性達の視線。
「あれ、これは貸切りですか?」
 目をそめけたくなるような雰囲気に、思わずガイドに尋ねてしまう。
「いいえ。どうぞ空いている席にお座りください」
 と言われてもまわりは、右を見ても左を見ても回りはすべて、
 女、女、女、女。
 である。
 息苦しい時間が過ぎていく。
 精神的にもそうであるが、女性達の化粧や香水の匂いが鼻について気分が悪くなるほどであった。美人とすれちがいに漂う、男をして魅惑させるあの独特の香も、こうも大勢の中にあってはもはや悪臭でしかなかった。
 さて観光バスという名称がついていても、れっきとした路線バスである。都心部ではほとんどがワンマンカーとなっているが、観光地ゆえかバスガイドが同乗している。これがまたわりかし美人で、まわりがまわりでなかったらくどいていたであろう。
 そうこうするうちに目的地の曽々木へついた。
 歩いて時国家へ行くつもりだった私は、ここで降りることにした。
 木の浦からここまでのバス料金を支払うつもりで、昇降口付近で待っていると、
「ありがとうございました」
 ガイドは、私同様にここで降りた人々に対して、深々と頭をさげバスに乗り込むと再び発車させた。
 あれ?
 バスが混んでいたのでガイドがうっかりしたのか、たった一人の男性である私にサービスしたのか。そういえば乗車中にもこちらのほうにばかり視線を向けていたようでもあるが……この際自分の都合のようほうに理解しよう。ともかくも無賃乗車が成立したわけだ。
 しかし、いざ歩きだしてみて、私はバス停を一つ間違えてしまっていたことに気がついた。時国家へ行くには、もう一つ先の曽々木口で降りなければならなかったのだ。
 しようがない、歩くことにしよう。
 曽々木海岸に降りて宕岩をフィルムに収めて曽々木口に向かう。このあたりは能登でもとくにけわしい海食崖が発達しており、富山湾に面する側が海岸段丘などのゆるやかな海岸線をなして内浦と称されるのたいし、こちらの日本海側は外浦と呼ばれて春先の融雪期には地滑べりがひんぱんに起きるという。
 時刻を確認すると、時国家を見学する時間がなくなっていた。仕様がないのであきらめて輪島へ直行することにした。乗車料金を得して、見学時間を損したわけだ。どちらかというと時間の損失のほうが痛い。
 途中千枚田とか入り浜式塩田とかを右手に見ながら輪島に着く。
 輪島といえば漆器の輪島塗りが有名である。観光としての朝市も忘れてはいけない。
 今回の旅ではそれらは一切スケジュールに組んでいない。単なる通過点でしかなくて、駅前で昼食を取ってから、直ちに門前行きのバスに乗った。門前から徒歩で十分ほど行くと、総持寺が見えてくる。
 総持寺といえば曹洞宗大本山の一つで、横浜市鶴見区にあるものはこちらのものを移設されたものである。
 どこ行ってもそうであるが、門をくぐって土産物屋が軒を並べている。
 中へ入ってしばらく歩いていると、
「そこのお方、拝観料を……」
 という場内アナウンスが聞こえてきた。
 拝観料?
 どうやら声は私にたいして発せられているようである。
 どこから? あたりをきょろきょろしていると、右手後方に土産物屋かと間違うばかりの小屋があって拝観料を徴収していた。
 しかし寺社を維持していくうえで、拝観料などを取るのはいたしかたないとしても、拡声機を使って拝観料の徴収を場内アナウンスするってのは、行き過ぎではなかろうか。まるで私が拝観料を踏み倒そうとしているかのように他人に思われるではないか。非常に気分を害される。せっかくの観光に水をさされた思いをした人は私だけではないだろう。ここは我慢して払いたくもない……すでにそういう心境に変わっていた……拝観料百五十円也を払って、中にはいっていった。しかしこの心境では感動のかけらもおきず、さほどの感心するような建物もなく二・三枚ほど写真を撮って、そこを立ち去った。
 次の目的地は猿山灯台である。
 バスの発着時間の関係もあるが、私は道下へ国道249号線を歩いていくことにした。
 ところがここ道下でも私は道を失ってしまったのである。
 ガイドブックで確認しても猿山灯台への入り口である深見への道がわからない。
 通行人に尋ねようにも、歩いているところは町のはずれもいいところ、歩いている人の姿はない。ときおり車が通り過ぎるが止めて聞くこともできないし、どうせ観光客ばかりで知るわけもないだろう。
 何とか深見への道を探し出して猿山灯台への長いみちのりについたときにはすでに太陽は水平線の縁にかかってまさに沈まんとしていた。
 またしても夕暮れにかすむ灯台の姿を撮り損ねてしまったわけだ。
「こうなりゃ、ぜがひでも朝日に輝く灯台を」
 撮るっきゃない!
 いまさらあわててもしかたがないので、歩みを遅めてゆっくりと猿山灯台へと向かった。
 天文薄明に暮れる湾岸道路をしばらく歩いていくと小さな村、深見にたどり着く。
 ここから猿山自然遊歩道を通って猿山灯台へ向かうのだが……。
 さて、入口は?
 幸いにも村人がいたので尋ねてみる。
「この時間に灯台に登るのかい?」
 もちろんと答えると村人は驚いていた。
「あ、ここを行けばいいんですね」
 丁度村人の背後に猿山灯台入口という看板を見つけて、私は悠然と自然遊歩道へ入っていった。
「ちょ、ちょっとあんた……」
 引き留めようとするカン高い村人の声を背後に聞き流しながら、ずんずんと突き進んだ。

(三)猿山灯台

 誰が自然遊歩道と名付けたかは知らないが、禄剛崎遊歩道とは比較にならない急傾斜が続き、けもの道といったほうが正しいと思われるほどの悪路であった。途中に休憩所があったので、少し休んでいくことにする。日はすっかり暮れて夜の闇が襲ってくる。ナップザックからこんな時のために用意していた懐中電灯を取り出す。村からここまでは段々畑であったが、ここから先は懐中電灯に照らされて深遠な森がポッカリと口を開けて待っている。勇気を奮いたたせて重い腰をあげると、真っ暗闇の森の中へ進み出した。
 と突然何物かにふいに襲われる。顔面にはりついたそれは蜘の巣であった。
 蜘の巣?
 猿山自然遊歩道という名前があるものの、こんなけもの道を通ろうとする観光客はおろか村人すらあまり通らないせいか、蜘の巣があちこちに張り巡らされていて、通行の邪魔となっている。適当な木切れを拾うとそれで蜘の巣を払いながら、また足元にも充分注意して進んで行く。
 絶壁から絶壁へ丸太の橋がかけられたところもあり、下を見るとめまいがしそうな闇の中から崖に当ってくだける波の音が聞こえてくる。足を踏み外したら死あるのみ、一瞬足がすくんでしまう。ただでさえ急な斜面の連続を登り降りして足が棒のようになってふらついているのだ。
「冗談じゃないよ、こんなところで死にたくないぞ」
 ガイドブックには記述されていない真実が次々と判明していく。そうなんだ、観光ガイドブックなんてのは、都合のいいことばかりでこんな誰も敬遠するような実情はかかれないのだ。
「一体俺はなんでこんなことしてんだろう」
 ふと頭によぎる。
 本当に無事、猿山灯台に到着できるのか。

 猿山灯台は森の最も奥まったところの、切り通しの崖っぷちに悠然と建っていた。
 その明りを目にしたとき、思わず目頭がじーんと熱くなってくるのをこらえることが出来なかった。
 感激のあまりに、まるで露光不足となるのも承知で灯台の写真を撮らずにはおれなかった。海をいく人々の航海の安全を守る灯台が、陸をいく私の道しるべになっていたのは、皮肉というべきか疲労した身体には砂漠の中のオアシスであった。
 さてオアシスといえば水である。やたら急斜面を登り降りしていたので、咽がかわいてしようがない。持っていた水筒は空になっていた。灯台のある敷地を、水道はないかと探し回るが、無人灯台のせいか見あたらなかった。灯台には鍵をかけられ設備内には入ることができない。窓越しに中をのぞくと完全自動化の機器が冷たく点滅していた。
 灯台から発せられる光明からもれる明りであたりがぼんやりと照らされている中に、下へつづく階段が目にはいってきた。どうやら下のほうになんだか建物がおぼろげにも見えてくる。
 なんの建物だろうか……
 私は懐中電灯で足元を照らしながら、降りていった。
 それは水洗トイレであった。こんなへんぴな山奥に水洗トイレが引かれているというのも不思議な感じがする。地下水を汲み上げているのか、貯水槽からか。
 手洗いの水道が目にうつる。蛇口をひねると新鮮な水が勢いよく流れ出てくる。どうやら上水道が直接ここまで引かれているようである。
 咽の渇き切っていた私は、その手洗いの水を飲みくだした。
 都会生活に慣れているひとなら、手洗いの水を飲もうという者はいないかも知れないが、これだってちゃんと消毒された上水道には違いないのだから、たとえトイレ内に設置してあったとしても飲料にはなんら問題はないのだ。上品ぶっていてはサバイバルは生き残れない。
 渇きがうるおされてひと心地ついた私は、トイレの外にあった石のベンチに腰を降ろして、絶壁の断崖から眼下に広がる日本海の夜景をしばらく眺めていた。海面上を動き回る小さな点の明りは漁船の漁火であろう。
 灯台からもれる光がなければ、本当の深遠の闇に閉ざされてしまいそうなまったく人気のない断崖の地にただ一人、動きまわるものは動物一匹としていない。
 ふと右手方向より女性のかん高い笑い声がこだました。振り向くと猿山灯台へのもう一つの入口である皆月付近に自動車のライトが点灯している。観光客か地元の若者か判らぬが、やはりこの灯台目指して来たのだろうか、自動車で来れるところまで来たはいいが、その先に続く遊歩道にためらっているのだろうか。
 しばらく笑い声は続いていたがやがてライトの消滅とともに、再び静寂が舞い戻ってきた。
「さてと寝るとするか……」
 石のベンチに横になって目を閉じる。衣服を通して石の冷たさが伝わってくる。
 海から吹き寄せる風が、水気を含んでとても寒い!
 しばらく横になっていたが、とてもじゃないが眠れるものではなかった。
 女子トイレに駆け込むことにする。
 聞くところによれば女子トイレに潜入して、汚物入れの使用済みの生理用品を集める奴もいるらしいが、そんな変態的な行為をするためではない。単に風をよけるためである。
 男子トイレというものは小用の際に飛沫が飛び散るので、床が非常に汚れてしまう。その点、大も小も個室に入ってしかもしゃがんで用を足す女子トイレ、ただでさえこんな所にくる女子などほとんどいないので、床はピカピカに輝いてきれいであった。そのまま寝ころんでもいいのだが、床は冷たいのでトイレットペーパーをちょっと失敬して、床に敷き詰めてその上に横になった。我ながらいい考えではある。
 まあ何とか眠れそうである。
 と思ったものの、夜半になって強風が吹き付けて気温もぐんぐん下がっていった。風はあたりの樹木を揺らし、嵐のようなざわめきとなって耳に入り込んでくる。ぶるぶる震えながら強烈な寒さをじっと絶えつづける。まるで冬のさなかのような寒さで、とても夏とは思えない。
 あまりの寒さに再び目を覚ました時、日の出にはまだ早い午前三時であった。風は不思議なほどに吹きやんでいて、放射冷却でしんしんと冷え込む中、ふと夜空を仰ぎ見ると真っ暗闇の中に浮かび上がるように、こんなにも星が輝いているのかというぐらい無数の星々がまたたいていた。それは見事なほどに美しい広大な銀河(天の川)の輝きであった。都市部では決して見ることのできない、神秘といってもいいほどの大パノラマ展望。
 感激を胸に、もうひと眠りするためトイレに戻る。

 午前四時半。
 夜が明けようとしていた。
 天文薄明がはじまっていた。空はしだいに明るさを増していき、そして待望の日の出となる。撮影ポイントを移しながら、朝日に輝く猿山岬灯台をフィルムに収めていく。場所の関係で灯台と太陽を同時にファインダーに捕らえることが出来ないのが残念だ。そのためには高い木に昇らなけらばならない。何せ断崖絶壁の上に灯台は建っているのだ。無理して万が一の事態になっては元も子もない。
 水平線から昇ってきた太陽の光は、春の女神を思わせるほど暖かく、日差しはやわらかい。水から上がった亀のようにしばらくひなたぼっこをして、冷えきった身体を温めていく。
 野宿をした猿山岬灯台の一帯が日の光に照らされ、夜の闇に隠されていた周囲の状況が明かになっていた。夜とはまるで違う世界が広がっていた。
 午前五時半。
 貴重な体験をさせてもらった猿山岬灯台を後にした。もちろんトイレの手洗いの水を水筒に補給することも忘れていない。
 元来た道をたどっていくが、一度通った道が夜と朝でこんなにも違うものかと驚嘆するほど、雰囲気が異なっていた。多少の寒さもじっとしていれば凍えそうになるのも、坂を昇ったり降りたり適当に汗をかけば、逆にすがすがしく感じられるようになっていた。夜には気づかなかったが、樹々のいくつかには立札がたてられ樹の種類や年齢などの説明文が記されている。
 再度深見海岸へ出てきたのは、ほぼ六時半であった。道下へ向かう途中、再び振り返ると貴重な体験をさせてもらった猿山が、朝日をあびて静に横たわっていた。

 道下を通るバスで富来へ向かい、金沢行きの特急バスに乗ると、快適なバスの揺れに眠気をおこし、ちょっと寝入っているあいだに、金沢に着いていた。

 猿山は夢の中に。




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