真夜中の出来事/破局

破局

 彼女は美しかった。

 憂いを秘めたその瞳、上品そうで可愛らしいその唇、輝くような艶のあるその栗色の髪。そして、まさに流れるような身体の曲線は、この世のものとは思われないほど素晴らしかった。

 彼女は聾唖だった。

 だが、そんなことは少しも気にとめていない。何故なら彼女をみそめてくれた男がいたからだ。それからというもの、彼女は男のアパートの一室で一緒に暮らしていた。だから彼女は男に対して精一杯に尽くしていたし、男もまた彼女を優しく可愛がってくれる。彼女にとって毎日が幸せな日々であった。
 今日も帰りの遅い男を、彼女は静かに待ち侘びていた。
 やがて男は帰ってくる。

 お帰りなさい

 彼女は嬉しそうな表情を浮かべて男を出迎えた。
 しかし、男の様子がいつもと違っていた。いつもならぐったりと疲れたように、だらしなく入ってくるのに、今夜はどうしたわけか鼻歌まじりで、いかにも楽しそうだ。

 何かいい事があったの?

 彼女は不思議がった。
 いつもの男なら入ってくるとすぐに彼女に目を向けたものだったが、今夜はまったく彼女を無視しているのだ。
 彼女の疑惑がさらに広がった。
 「おまえとは、今夜限りでお別れだな」
 男がはじめて彼女の方を見つめながら呟いた。
 彼女は目の前が真っ暗になっていくように感じた。
 表情が次第に強張っていくようだった。
 当然の話だ。
 何の予告もなしに、いきなり別れようだなんて、誰が冷静でいられるか。

 どうして、そんなことをいうの
 わたしが嫌いになったの?

「実はな……。ある女性と結婚することになったんだ。だから、おまえは必要がなくなった」

 まあ! それじゃあ、わたしを捨てるのね。今まで尽くしてあげた、このわたしを……

「これまでの長い間、慰めてくれてありがとうな。ご苦労さん」
 男は彼女の唇に接吻をして、背中にある栓を抜いた。
 ダッチワイフの彼女は、シューと物悲しい悲鳴のような音を立てて、ゆっくりと萎んでいった。

 覚えてらっしゃい
 わたしは、あなたから絶対に離れないわ

 完全に萎んでしまった彼女を、男はくしゃくしゃに小さく丸めて、部屋の外のゴミ箱に捨てた。
 数日後、男はある女と結婚して、新婚旅行に出発した。
 新妻となったその女は、恥じらいのためか、一言も口を開かなかったが、幸せそうだった。そして旅館で初夜を迎える。
 女は常に慎ましやかだった。二人は一緒に風呂に入った後、胸をときめかせてベッドに並んで寝た。
 次の朝。
 男が目を覚まして、新妻の顔を見ようと隣を向いた時だった。そこには女の姿はなく、薄汚れたダッチワイフが横たわっていた。ゴミ箱に捨てたはずの彼女だった。

 昨夜はとても楽しかったわ
 あなたは、わたしだけのものよ

 彼女は幸せそうに微笑んでいた。
 男は叫び声を発したかと思うと、気が狂ったように、けたたましく部屋を飛び出していった。
 そして、女は旅館のゴミ箱の中で、身体のすべての関節を外され丸められて、無残な姿となって裸で死んでいた。

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