陰陽退魔士・逢坂蘭子/闇にうごめくもの(1)
「待て! 逃げられないぞ」
 闇のしじみを破る怒声。
 追いかける者と逃げ回る者。
 その包囲網は狭まりつつあった。

 大阪府警阿倍野署の木下刑事は、つい先ほど起きた猟奇殺人事件の容疑者と思しき女を追い詰めていた。
 ここ最近、通り魔殺人が連続して発生し、捜査の網を張っていたところに、新たなる殺人が起きて、ついに犯人を追い詰めたのである。
 袋小路に追い込まれる犯人。
「観念しろ、逃げ場はないぞ」
 しかし、犯人はニヤリと微笑むと、ヒョイと飛び上がるように塀に登り、向こう側へと飛び降りた。
「塀の向こうだ! 廻れ」
 捜査員が塀の裏側へと回り込むと、犯人はかなり離れた土手の上を逃げていた。
「止まれ! 止まらぬと撃つぞ」
 懐から拳銃を取り出し、犯人の足に狙いを定める木下。
 しかし犯人は止まる気配はない。
 止まれと言われて止まる奴はいない。
 夜の闇に拳銃の音が鳴り響く。
 前方を行く犯人がばたりと倒れるのが見えた。
「急げ、確保するのだ」
 木下刑事以下の捜査員達が犯人に駆け寄る。
「こ、これは……」
 そこに蹲っていたのは、足を撃たれてもがき苦しむ若い娘だった。

 救急病院の病室。
 救急車で運ばれて緊急手術の後に、麻酔のためにベッドで眠るのは市内の高校に通う女子高生。
 その傍らの椅子に腰掛けて、女子高生を見守っている母親。
 病室の外の廊下では、父親が木下刑事から説明を受けていた。
「つまり娘は、犯人と間違われて撃たれたということですね」
「はい。申し訳ありません」
「夜遅くまで出歩いていた娘にも多少の非はあるかも知れないが……。犯人は捕まったのですか」
「残念ながら、逃げられてしまいました」
「そうですか……。連続通り魔殺人が起こっているので、娘には早くに帰宅するように、常日頃から言い聞かせておったのですが、まさかこんなことになるとは」

 大阪府警阿倍野警察署。
 玄関前には【連続通り魔殺人事件特別捜査本部】という看板が立てられている。
 会議室では大阪府警本部から派遣されてきている捜査一課の井上課長が議事を進めていた。
 井上課長の隣には、阿倍野警察署の神部幸三署長が陣取っている。
 二人の警察官としての階級は警視で同じだが、警察署長という役職が付いている分、神部の方が署内では位置が高い。
 署長が立ち上がって訓示をはじめた。
「犯人を捕らえるために、やむを得ず拳銃を使用する時は、犯人の動きを的確に判断し、両手で拳銃を支えつつ慎重に狙いを定めること。さらに周囲の状況にも目配りして、通行人がいないかなどを見極めること」
 女子高生が流れ弾を受けて負傷したことを受けて、拳銃の取り扱いについて注意事項の再確認が行われていた。
 狙いを外した場合、外れた銃弾が意外な弾道をとることがある。特に跳弾と呼ばれて、何か硬い物に当たった銃弾が反射して予想もしない方向へ飛んでいくこともある。
「拳銃を使用する時は、くれぐれも慎重にな」
「ありがとうございました」
 署長の長い訓示が終わり、席に腰を下ろすのを待って、井上に変わって議事進行が進められる。
「さて……、昨夜は犯人を取り逃がしたものの、その素顔が明らかにされた。これが犯人のモンタージュである」
 と、投射スクリーンに映されたモンタージュを指差した。
 そこには、髪振り乱した恐ろしい形相をした老婆が描かれていた。
「まるで昔話に出てくる鬼婆のようですね」
 木下刑事がポロリと感想を漏らした。
 言い得て妙であるが、皆が同様の意見のようであった。
「こいつが連続通り魔殺人の容疑者である。見つけたら直ちに確保しろ。ただし相手は極悪非道の殺人鬼だ、必ず二人以上で行動して十分心して掛かること。」
 会議を終えてモンタージュのコピーを持って聞き込みに出発する捜査員達。
 ちなみに木下刑事は、居残りで連絡役を命じられていた。流れ弾で通行人を負傷させた責任問題からである。
 塞ぎこんでいる木下に、上司である井上が話しかけた。
「ちょっと付き合え」
 先に会議室を出る井上と、それに従う木下。
 二人が向かった先は警察署の屋上だった。
 ポケットから禁煙煙草を取り出して咥える井上。
 警察署は全署内禁煙になっている。
 愛煙家である井上にとっては、棲みにくい世の中になったと嘆きながらも、どうも口が寂しくて禁煙煙草を愛用していた。
 禁煙煙草といえども口に咥えていると喫煙していると勘違いされるので、署内では屋上に出て使用することにしたいた。
「まあ、そうしょげるな。拳銃を持つ警察官にとっては、長い職務の間にはいつかは経験するだろう事案だ。ただ君はそれがちょっと早かったということだ」
 慰める井上に、
「はあ……」
 ため息をつく木下。