梓の非日常/第二部 第一章・新たなる境遇(二)ディナー
2021.04.27
続 梓の非日常/第一章・新たなる境遇
(二)ディナー
「そうねえ……」
と考えてから……。
絵利香はボーイを呼び寄せて何事か相談していた。
「少々、お待ちいただけますか? 支配人にお話を通してみます」
丁重な態度で用件を確認してボーイがホテルに戻っていく。
「なに、相談してたの?」
「いえね。このホテルには結婚式場があるじゃない。来客用の貸衣装とか借りられないかと思ってね」
「へえ、貸衣装があるんだ……」
「ホテルなら大概あるんじゃない? レストランにだって、ウェイトレスが粗相して客の衣装を汚してしまった時のために、ちゃんと用意してあるよ」
「そうなんだ。便利だね」
やがて支配人がやってきた。
依頼人が、ホテルのオーナー令嬢である絵利香だから、支配人自ら直接出向いてきたのである。
「絵利香お嬢さま。ようこそおいで下さいました」
「こんにちは、お邪魔してます」
「お話をボーイから承りました。お召し物の件はこちらでご用意させていただきますので、ご安心くださいませ。お料理の方も、十分吟味致しましてご満足頂けるものをお出しいたします」
「ありがとう。お願いしますね」
「どう致しまして。それではお食事のご用意が整うまでホテルでおくつろぎくださいませ」
深々とお辞儀をして戻っていく支配人。
「やっぱりいいね。お嬢さまか……心地よい響きだよね」
この頃には、梓と絵利香が富豪令嬢であることは、クラスメートや知人にはとっくに知れ渡っていた。ロールスロイスで通学したり、親睦旅行でのことを考えればすぐに気がつく。
その後プールからホテルのレストランに移動して、慎二の快気祝いの食事会となった。
各人、ホテルの貸衣装室で思い思いのドレスを着込んでいる。
熱傷で何ヶ月も意識不明の重体だったとは思えないほどの、見事な食べっぷりを披露する慎二。
「いつもながら豚並みの食欲だなあ」
「そうねえ。せっかくのタキシードが泣いてるじゃない」
「服で食べるんじゃないだろう」
食べ物を頬張ったまま喋る慎二。
「だったらタキシードなんか着なきゃよかったのに」
「一度着てみたかったんだよ。これ」
「馬子にも衣装という言葉は、慎二君には合わないわね」
「ほっとけ!」
そんな慎二とクラスメート達の会話を黙って見つめている梓。
「おとなしいのね」
絵利香が囁くように語り掛けてくる。
「そうかな……」
「だいぶ気にしているわね。負い目とも言ってもいいのかしら」
「なんでそうなるのよ」
「そうじゃない」
「おーい。絵利香ちゃん、次の皿はまだなの?」
マナーとかの持ち合わせもない慎二に、周囲の他のお客がくすくすと笑っている。
「相変わらずね。慎二君は、一人前じゃ足りないでしょ。いいわよ」
というとウェイターを呼び寄せて、もう一人前プラスして都合二人前を慎二に出すように指示を出している。ホテルのオーナー令嬢だからこそできることだった。
「サンキューね」
食べているときが一番幸せという表情で、もう一人前の皿に舌なめずりしながら、フォークとナイフをすり合わせてから、手をつけはじめる慎二。
命の恩人とはいえ、こういう常識知らずな面を見るにつけ、このまま付き合っていてもいいのだろうかと煩悶する梓だった。
「まあ、こういうところが慎二君のまたいいところじゃない。天真爛漫で嘘偽りのない正直な性格をまんま出しているんだから」
と絵利香は、慎二をアフターフォローするが、梓にはいまいち納得できないでいる。
「そうなのかな……」
「そうそう」
なんにせよ、慎二とはこれからも付き合いを続けていくのだろう。
ニューヨーク・ブロンクスにある真条寺家本宅。
当主である渚の執務室の電話が鳴る。
渚専属の執事の深川恵美子が相手先を確認する。
『お嬢さまからのTV電話が入りました』
『はい』
渚が机の上のコンソールを操作すると、右手の壁際にするするとパネルスクリーンが降りてきて、梓が映しだされて話し掛けてくる。
『お母さん、ただいま』
その画面に向かって応える渚。
『お帰り、梓』
梓は制服姿のままである。屋敷に帰ってきてすぐに連絡をいれてきた証拠である。その姿勢が母親としてはうれしいものだ。
本宅と別宅に別れた状態で、ただいまにお帰りというのは実際には変な気もするが、母娘の間には、遠く離れた地にあっても、心が通じ合っていれば矛盾は感じていない。
『それで慎二ったらね……』
梓は、今日一日に起きた事柄を、逐一報告している。男性である慎二という存在も包み隠さず話してくれる、母親としては思春期にある娘の気持ちも察して、決していぶかることなく真摯に梓の話しに耳を傾けてあげている。
『最近のお嬢さまは、ほとんど毎日のように慎二君の事を話されていますね。それも本当に楽しそうにです』
『そうね。正直に話してくれるのは、母親としては嬉しい限りだけど。やはり年頃の娘を持つ親としては、少々心配だわ』
『このままの関係が続けば、お嬢さまは、彼を真条寺家の婿としてお選びになりそうな予感がします』
『これは一度、その慎二君とやらに直接会って話し合ってみる必要がありそうね。いくら命の恩人だからといっても、それがトラウマとなって相手の真の姿を見失っているのかも知れない。麗香さんにしても、あまりにも近くに寄り過ぎているから、正確な判断を下せないでいるだろうし、ここは第三者の目で冷静に観察すれば真実も判るでしょう』
慎二が国際救急センターに移送されて集中治療を受けていた際、渚も面会に訪れてはいたが、相手の容体を考慮して短く挨拶しただけであった。
そしてある程度快復すると共に、再び日本の生命科学研究所へと移っていった。
『お嬢さまのお誕生日に、お呼びしたらいかがでしょうか。お嬢さまもこちらにいらっしゃることですし』
『そうしましょう。早速、麗香さんに連絡して』
『かしこまりました』
慎二のアパート。
渚から直接指示を受けて慎二を招待するために尋ねたのである。
麗香がアパート名を確認して、階段を登りはじめる。
「こういう所に来るのははじめてね」
世話役として梓と共に暮らすようになって、財閥令嬢の優雅な世界にどっぷりと浸かっている麗香には、一般庶民の生活に触れるのはこれが最初の出来事となる。
同じ人間でも生まれた環境によってまるで生活を隔たれてしまう。かたや財閥のお嬢さま、かたやアパート住まいの一般庶民。雲の上の存在と、地を這いずりまわるもの、本来なら接点すら有り得ないはずなのに、なぜか神はいたずらをする人間交差点。
命を投げ出して梓を助けだしたあの長沼浩二という男、しかもその男は当時中学生だった沢渡慎二という少年に男の何たるかを教えた。彼が、梓と慎二を引き合わせたのは、間違いのない事実であろう。麗華の知らないところで神は悪戯をしているようだ。
そして今、梓と慎二の関係に新たなる予兆が始まろうとしている。
「ここね」
203号室。確かに沢渡というシールが貼られている。
ドアをノックする麗香。
「開いてるよ」
と中から慎二の声が返ってくる。
入っていいということかしら。
「失礼します」
ドアを開けて、部屋の中に入る麗香。
そこは安アパートのどこでもありそうな、作り付けの一畳程度の台所と四畳半の居間の二部屋のみ。1Kとも呼べないおそまつな間取りであった。とは言っても1Kという言葉自体、麗華が理解できているかは疑問であるが。仮に5LDKだっとしても狭いと感じるだろう。
折りたたみ式の食卓を部屋の中央に置いて、カップ状の容器から麺状のものを、割り箸で口へ運んでいる慎二。
「もしかして今食べてらっしゃるのは、カップラーメンとかいうものではないですか?」
「そうだよ。って、カップ麺も知らないの?」
「はい。食事は、料理人達が作ってくれるものを、毎日頂いていますから」
「つまり自分で料理したこともないのかな?」
「いいえ。ニューヨークで梓お嬢さまと寮暮らしをしていた頃は、ちゃんと自分達で料理はしておりましたが、カップラーメンの存在は知りませんでした」
「寮生活で料理していたと言ったって、どうせブルジョアの生活だろう。毎日の食卓には、それこそフォアグラだのキャビアだのが並んだりしたんだろな。ま、そこまではいかないにしても、生活費は全部母親からもらっていたんだ。毎月いくらいくらの予算内でやりくりしなきゃならん俺達庶民の生活は知らないんだ。だからカップ麺のことを知らないんだ。このカップ麺がいくらするか知ってるか?」
素直に首を横に振る麗香。
「このカップ麺が一個、七十円台から高くても二百円台だよ。これ一個で毎度の食事が済むんだ」
「そ、そんなに安いのですか?」
「まあね。それでそのブルジョアの方が、庶民の部屋に何のようかな」
「え? あ、はい。実は……」
「あ、ちょっと待って。全部食ってから聞くことにする」
いきなりカップ麺を胃の中へかき込む慎二。物珍しそうにその光景を眺めている麗香。そばにあった未開封のカップ麺の容器を手にとり、説明書きを読んでいる。
……熱湯を注いで三分で食べられるのね。こんなものがあったんだ……
最後の汁を飲み込み終えて慎二が口を開いた。
「さてと、さっきの続きを聞こうかな」
「あさってが、お嬢さまのお誕生日なのですが、ご存じでしたか?」
「え、そうなの? 知らなかったよ。教えてくれなかったものな。ということは、十六歳になるんだ」
「はい。それでニューヨークのブロンクスの本宅で、お誕生パーティーを開きます。そのパーティーに沢渡様をご招待することになりました」
「ありがたいけど、俺パスポートとか持ってないから、アメリカに行けないよ。今から申請したって間に合わないんじゃないか?」
ハワイから強制送還を受けたことを思い出していた。
「アメリカ大使館で特別入国許可証を発行してもらいます。すでにアメリカ政府{入国管理局}の事前承認を得ておりますので、大使館で簡単な質問に答えて頂けるだけで済みます」
「あんたら、何者なんだ。アメリカ政府にコネでもあるんか」
「渚さまを甘く見てはいけませんよ。アメリカ政府どころか、世界の経済の行く末を握ってらっしゃるのですから」
「そうなの?」
「ともかく、今日中に申請に必要な書類を手に入れて頂きます」
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梓の非日常/第二部 第一章・新たなる境遇(一)憂鬱な日々
2021.04.26
続 梓の非日常/第一章・新たなる境遇
(一)憂鬱な日々
慎二も無事に退院し、梓の生活にも平穏が戻りつつあった。
しかし心境は以前とまるで変化していた。
慎二に命を助けられたことは、明白な事実である。
炎を掻い潜って助けにきてくれた時は、ほんとに驚いてしまった。
そして、あの炎の中での告白劇も脳裏から離れることはない。
そう……お互いに好きだと告白したこと……。
生きるか死ぬかという極限にあって、果たして分別のある精神状態であったかどうか……。自暴自棄にはなっていなかったか?
ただ単に相手を安心させるために、口からでまかせに発した言葉なのかも知れないし……。
命の恩人の慎二はともかく、自分はどうだったのだろうか。
「助かったら、女の子らしくしてくれ……か」
あの時、慎二と交わした約束を思い出した。
指きりげんまんした小指をみつめながら思いにふける。
「あたしって……ほんとに男っぽいのかな……」
確かに、すぐに喧嘩を仕掛けたり、問答無用で相手を投げ飛ばしたり、蹴りを入れたりするけど……。
「やっぱり、普通の女の子じゃないわよね……」
潜在意識にある長岡浩二という人物がいる限りは、どうしようもないかも。
しかし指きりげんまんした手前、女の子らしくする努力をしなきゃならないし……命の恩人の頼みだから、なおさらだ。
「ああ、もう! なんでこんなことで悩まなきゃならないのよ」
思わず大声を出してしまう梓だった。
「あらあら、何を悩んでいるの?」
振り返るといつの間にか絵利香が立っていた。
「梓ちゃん、最近元気がないわよ。せっかく慎二君が退院したというのに」
「だから、悩んでいるのよ」
「そっかあ、命の恩人に対し、どう接したらいいか……悩んでいるんでしょ」
さすがに勘の鋭い絵利香だった。
「命を助けられたからって、普段通りでいいんじゃないかしら」
「女の子らしくしてくれと言われても?」
「言われたんだ……」
「うん……炎の中で」
「そっか……それで悩んでるんだ」
「でもさあ、その時の慎二君は、自分の命を捨てる覚悟の上だったんでしょ。自分にたいしてではなく、将来に恋人ができた時のことを考えての発言だと思う。つまり、慎二君にとっては、梓ちゃんが女の子らしかろうが、男っぽいところがあろうが、気にしていないと思うよ」
「そうかなあ……」
「だって、男っぽいところの梓ちゃんとも結構気が合ってるしさ」
「喧嘩相手としてでしょ?」
「喧嘩するほど、仲はいいのよね」
「どこがよ」
「でも命を張って助けてくれたことは認めるでしょ」
「まあね」
「意外と薄情なのね」
「なんでそうなるのよ」
「自分も慎二君のこと好きなのを認めなさい。そうすれば気が楽になるわよ。そもそもの悩みはそこにあるんだから」
図星を突かれて言葉に窮する梓。
「やっぱり好きなのかな……。慎二のこと」
「二人を見てたら、誰だってそう思うわよ。いい雰囲気よ」
「そっかあ……好きだったんだ」
「人事みたいに言わないでよ。自分のことでしょ」
「認めたくないもう一人の自分がいるんだよね」
「浩二君の意識?」
「かもね」
「それは違うわね。そう思うことで逃避しているだけじゃない?」
「はあ……なんか堂々巡りしているわね」
「そうね」
「気分転換にどっか行かない?」
「それもいいかもね」(二)ホテルにて
というわけで、出かけた先はホテルのプールだった。
もちろんホテルといえば篠崎グループと相場が決まっている。水着になって泳げば気分も爽やか、絵利香の誘いに乗ってやってきた。
ただ以前と違うのは、SPらしき人物の数が増えていることであった。一般人を装ってはいるが鋭い眼光からすぐにそれと判る。場所が場所だけに、女性SPもいるようだ。
そして外出の際には、いつも麗香が付き添うようになった。
研究所火災は、ハワイ沖海戦のことを含めて、梓の命を付けねらう何者かの存在を明らかにした。
「で、放火の犯人は捕まったの?」
「え?」
絵利香の唐突な質問に驚く梓。
「な、何を言っているのよ」
「だめよ。隠しても判っているんだからね。梓ちゃんの命を狙っている人間がいることぐらい、とっくに気づいているんだから」
「気づいていたの?」
「篠塚の情報網も馬鹿にできないわよ。事の発端は、ハワイに行ったときの飛行機墜落事故の調査結果よ。自動操縦装置のプログラムが何者かに書き換えられていたことが判明したのよ。コースが逸れて燃料切れとなるようにね。わたしか梓ちゃんのどちらかを狙った犯行だと断定されたのよ」
「その事、どうして黙っていたの?」
「確信がなかったからよ。しかし今度の研究所火災で、間違いなく梓ちゃんが狙われていることがはっきりしたわ」
「そうかあ……やっぱり絵利香ちゃんもそう思っているんだ」
「当たり前よ。駆逐艦に攻撃されたりなんかすれば、誰だって思うわよ」
「そうだよね」
「その話し振りからすると、犯人には逃げられたんだね。あのマッドサイエンティストじゃないの?」
「可能性は大きいわね。あれから姿が見えないもの」
「今度から人を雇うときはしっかりと身元を確認することね」
「へいへい」
「やあ、いたいた。おまたせえ!」
と背後から聞きなれた声。
「慎二!」
振り返ると、いつものひょうきんな表情をした慎二が、クラスメートと共に水着姿で現れた。
鶴田公平、相沢愛子らの面々が揃っている。
「遅かったじゃない、みんな」
「仕方ないよ。ホテルのプールなんて利用したことないんだから。入場・利用の仕方が判らなかったし、どの階にあるのかも判らなかったんだよ」
「フロントに聞けばすぐに判ったはずよ」
「だってよ、ホテルのフロントって、何かかしこまっていてさ。聞きずらいじゃないか」
「そうそう、一般庶民には高級ホテルは近寄りがたいところがあるのよね」
「そんなものなの?」
「お嬢様育ちの二人には判らないかもしれないね」
「へえ、意外ときれいに直ってるじゃない。瀕死の大火傷を負ったというけど、見る影もないわね」
「まあね。何せ真条寺家が全力を挙げて、世界中の名医を掻き集めて、最新の治療を施してくれたからね。な! 梓ちゃん」
と言いながら梓の隣に座る慎二。
「そ、そうね……」
「ふーん。そういえば慎二君の快気祝いしてないわね」
「言われてみれば、その通りね」
「この後でやりましょうよ。プレゼントとかは用意してないけど……料理は出すわよ」
「フランス料理のフルコース?」
慎二が小躍りし、舌なめずりして尋ねた。
「ええ、いいわよ。慎二君がお望みなら」
「よーし。食うぞー!」
「あのねえ。普通、快気祝いって」
「固いこと言いっこなしだよ」
「食い意地の張ってる慎二君らしいわね」
「しかしフルコースを頂けるのは嬉しいけど……できればふさわしい服にドレスアップしたいわよね」
「ああ、そうだよね。俺なんかTシャツにGパンだよ。きっと、追い出されちゃうよ」
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梓の非日常/第二部 序章 命をつむぐ
2021.04.25
続 梓の非日常/序章
命をつむぐ
真条寺家執務室。
天井から懸架されたパネルスクリーンに渚の姿が映し出されていた。
『お嬢さまは、今日も沢渡さまのお見舞いに、病院を訪れていらっしゃいます』
『そう……。仕方ありませんね』
本宅との定時連絡の時間だった。
日本とブロンクスとに分かれて暮らす、梓と渚との母娘の交流をはかるために設けられた時間であった。
しかし今は、麗香が梓の近況を報告する機会に変わっていた。
『それで慎二君の容体はどうなの?』
『一進一退でございます。危篤状態から未だ脱却できておりません。実際生きているのが不思議なくらいで、日頃の鍛錬の賜物というか、その強靭な精神力が辛くも命を支えているものと思えます』
『それがいつまで持つかが問題ね』
『はい、その通りでございます。熱傷治療では有名な札幌医大の医療チームにもお越しいただいております』
『ああ、昔サハリンの五歳の男の子を治療したという……』
『こちらでできる限りのことは致しておりますが、何せ熱傷部位が七割にも達しており、かつ三度の重症もかなりに及んでおりまして、皮膚移植だけでは間に合いません』
『動かすことさえできれば、設備もスタッフも揃ったこっちの救命救急医療センターに、搬送するんだけど。危篤状態を脱して移送が可能になったら、すぐにでもこちらに運びましょう』
国際救急救命医療センター。
それはニューヨークにある広大な真条寺家ブロンクス本宅の敷地内、私設国際空港に隣接されて設立された病院である。悲惨な結果をもたらす航空機事故などに対応できるような、最新の設備とスタッフが揃っており、私設空港隣接という立地条件を活かして、ビザなし渡航による国際救急救命治療を可能にしていた。
そして「空飛ぶ病院」と異名される専用の救急医療用ジャンボジェット機を待機させている。大地震などの世界中で起こった災害に即対応できる体制が整えられているのであった。
『ともかくも梓の命を救った恩人です。真条寺家の全力を挙げて治療に専念しましょう。世界中から医療スタッフを集めましょう』
『よろしくお願いします』
『日本事業本部の業務はすべてこちらで手配します。あなたには、梓のそばにいて、精神面のフォローをお願いします』
『はい。かしこまりました』
連絡通話が終わった。
麗香は、ため息をついてから端末を操作した。
パネルスクリーンはするすると上がって、天井内に収まった。
「さてと、お嬢さまのところへ戻りましょうか」
しかし……。
麗香はいぶかしげだった。
梓が、自分に内緒で研究所に通っていたということである。
「わたしに話せない秘め事があるということか……」
誰しも隠し事の一つや二つはあるものだ。麗香だって梓に内緒にしていることはある。だからあえては問いただすようなことはしたくないが、ただ場所が生命研究所の地下施設ということが気がかりだった。
生命科学研究所は梓が日本に来て事故にあい、最初に入院したところだ。
仮死状態から蘇生させるために、一時期地下施設に運ばれたことがあったが、研究者以外立ち入り禁止で、母親の渚ですらその蘇生には立ち会いを許されなかった。極秘裏の何かが行われて蘇生が成功して戻ってきた。
もしかしたら……そのことと関係があるのだろうか。
確かにお嬢さまは、仮死状態から復活した。
その後のお嬢さまは、少し男の子っぽい性格になっていたが、仮死状態で脳障害を多少なりとも受けているはずだから、それも仕方のないことだと医者から説明を受けた。
研究項目にクローン開発部門もあるはずだが、実は戻ってきた梓お嬢さまがクローンだったなんてことはあり得ない。記憶は間違いなく梓お嬢さまのものだし、困った時につい髪を掻き揚げる独特の癖や、お嬢さま育ちの自然な仕草まで、完璧にクローンすることは不可能なはずだ。ましてやほんの数日でクローンを作成できるはずもない。
間違いなく本物の梓お嬢さまであって、クローンではないと確証できる。
「だとしたら何の用があったのかしら……」
詮索するつもりはないとはいえ、やはり気になるものだ。
その頃、梓は付属病院のICUに収容された慎二を見舞っていた。
感染対策と酸素供給のための特殊な無菌酸素テント内に隔離されたベットの上で昏睡状態の慎二がいた。
熱傷患者には、熱傷による直接のショック状態の他、皮膚呼吸ができないために酸素供給不足となることが懸念される。
本来なら一般人は入室などできないのだが、梓ということで特別に許可されていた。もちろん無菌テント内用の完全滅菌された治療スタッフ用のユニフォームを着込んでである。
「お嬢さま、少しはお休みになられないとお身体にさわりますよ」
看護士が心配して気を遣っている。
あの日以来ずっと見舞いに来ていた。
学校が終えてすぐに来院し、夜に麗香が迎えにくるまで、ずっと慎二のそばで見守っていた。
「いいの……。この命は慎二に助けてもらったもの、もし慎二が死んだら……」
「滅相なことおっしゃらないでください! この方がせっかく命がけで炎の中から助け出してくれたお嬢さま。命を粗末に考えてはいけませんわ」
「……そうね。そうかも」
「この病院には熱傷治療のスペシャリストが揃っているんです。心配はいりませんよ」
「うん……」
確かに最新治療という点では、最新機器とスタッフが揃っているのは知っている、とはいえ慎二のあの悲惨な状態を目の当たりにすれば、果たして看護士の言うとおりに助かるとは限らない。確立はかなり低いことが想像できる。
「お嬢さま、麗香さまがお迎えに参りました」
振り返るとICUのガラス窓の外に麗香の姿があった。治療スタッフ以外は入室禁止のために外で待機しているのだ。
「わかった……」
いつまでも慎二のそばに寄り添っていたいが、自分がいてもどうなるまでもなく、致し方なく退室する梓。
「いかがですか?」
「相変わらずよ」
「そうですか……」
「何とかしてあげたいけど……」
それっきり黙りこんでしまう梓。
麗香もそれ以上は尋ねなかった。
息苦しい雰囲気。
しかしどうしようもなかった。
これだけは神のみぞ知ることであって、二人にはなすすべがない。
病院を出てからファンタムVIに乗り込む。
「お母さんは何か言ってた?」
「はい。沢渡さまのこと、真条寺家の全力をあげて治療を施すと仰られていました。重篤状態を脱して移送が可能になったら、ブロンクスの救命救急センターにて、皮膚移植から形成手術に至るまで、全世界から寄せ集めた名医によって最新治療をなさる手筈を整えていらっしゃいます」
「そうなの……。わかった、ありがとう」
「いえ……」
しばらく押し黙っていたが、ぽつりと話し出す梓。
「なんでかな……あたし、慎二のこと、こんなに心配してる。今までこんな思いしたことがないよ」
「それは沢渡さまのこと、好きだからではありませんか?」
「会えば喧嘩ばかりしているのに?」
「喧嘩するほど仲が良いというじゃありませんか。それになにより沢渡さまにとっては、命を掛けて助け出してくれるほど、お嬢さまのこと大切に思ってらっしゃるのですから」
「そうよね。命がけで救ってくれたのよね」
「はい」
「炎の中でね、『死ぬときは一緒だよ』って言ってくれたんだ」
「そうでしたか、そんな沢渡さまがお嬢さまを残して逝ったりしませんよ。必ず助かります」
麗香とて確証などなかったが、そう言って慰めるしかなかった。
「そうだね。そう信じるしかないよね。慎二のことだもの、必ず助かるよね」
「はい。その通りでございます」
一ヶ月が経った。
慎二は、一進一退を繰り返しながらも、強靭的な体力をみせて、意識不明ながらも徐々に回復の兆候をみせていた。
そしてついに移送可能なまでに回復し、医療スタッフと設備のより整ったブロンクスの救急救命センターへと移送が実施された。
もちろん梓も同行して渡航した。
ブロンクスへ運ばれた慎二は、全世界から選りすぐれた名医と、世界最高水準の治療が施された。 日本国内ではできない高度な治療だ。
真条寺家の全力を挙げた治療と、梓の献身的な介護によって、慎二は奇跡的な回復を見せていた。
生死を分ける皮膚呼吸を取り戻し、細菌感染を防ぐ緊急皮膚移植。創傷と顔の筋肉の引き攣れを修復する形成外科手術。そして以前の表情を取り戻す整形外科手術と、回復の状況に即した治療が段階的に施されていった。
そして、ついに慎二は退院を迎えることになったのである。
序章 了
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2021.04.27 12:38
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