梓の非日常 第二部 第八章・小笠原諸島事件
(三)乗船 「生徒のみなさーん! こちらから乗り込みでーす!」  係員が、客船のそばに設置されたシャフト式垂直格納型舷梯装置へと案内する。  舷梯(げんてい)とは、船や飛行機などの乗降に使われる舟はしご(タラップ) のことである。 「ここは乗組員専用のはしごです。係員の誘導に従ってお乗りください」  絵利香達生徒は特別客なので、一般客とは別扱いされるようだ。  通常は乗組員及び荷役用だが、非常時には避難はしごとなる。  一般客は、より大型で船に格納できる客船用水平格納型振り出し式舷梯装置から 乗船するようになっている。  現在、神戸港から乗船した客が下船している最中である。  神戸〜横浜間、船中泊三日の旅という短い国内船旅だが、豪華客船に一度乗って 体験してみたいというお客様だ。それでも料金120,000円から520,000円ほどかかる。 「すげー!」  豪華客船など乗ったことはもちろん、見たこともない生徒がほとんどだ。  船内をキョロキョロと物珍しそうに、あっちフラフラ、こっちフラフラするもの だから、なかなか目的の場所に到達できないでいる。  たどり着いたのは、中層階船首部デッキのあるフロア。  このフロアは、先ほど横浜に降り立った客のような国内向けで、リーズナブルな 価格と客室設定になっている。  フロアの前部を生徒達専用の貸し切りにして、一般客立ち入り禁止にしている。 「あたし、船酔いするかも」  客船などに乗ったことがない生徒もいて、船酔いを心配していた。  船が海上の波によって起こす「揺れ」が原因で発生する症状。これを一般には 「船酔い」と呼んでいます。どうやら英語のsea sicknessの直訳が語源のようで、 学問上では「動揺病・加速度病」と言います。 ・ピッチング(縦揺れ) ・ローリング(横揺れ) ・ヨーイング(水平面での左右の揺れ) ・ヒーヴィング(上下動) さらに波が大きくなると ・パンチング(船首が波に叩き付けられる) ・フォーリング(急速落下)  内耳にある平衡感覚を調整する機能が、不規則な連続情報過多により、正常に働 かなくなって船酔いを起こす。 「大丈夫よ。総トン数が一万トンを超える大型船は、比較的揺れは少ないんだから」 「酔ってからでは、酔い止めを飲んでも、吸収されにくいから、今の内に念のため 飲んでおいた方がいいわよ」 「あたし、酔い止め貰ってくるね」  心配してくれるクラスメートがいれば心強いものだ。  客船といえば、横揺れ防止装置/フィン・スタビライザーが装着されているが、 悲しい話がある。  三菱造船(現三菱重工業)の元良信太郎博士が発明し、1923年に対馬商船「睦丸 (むつまる)」に世界で最初に取り付けられた。しかし、制御技術の未熟だった当 時では十分な効果を発揮することが出来ず、特許はイギリス企業 Denny Brown に 売却された。以降日本の船舶は、特許料を支払って装備しているという。  荷物を部屋に置いたら、丁度昼食時間となりバイキングビュッフェへ向かう。  肉料理主体の洋食コース、お寿司などの和食コース、もちろん中華コースもある。  デザートもシェフの精魂を込めた品々が並んでいる。  各自、それぞれ自由に取り分けて、テーブルに運んで食べるのだ。 「なあ、本当に全部タダだよな」  慎二が心配そうに尋ねた。 「大丈夫よ。好きなだけ食べていいわよ」 「そっかあ!じゃあ、遠慮なく」  普段は食べることはないだろう肉料理にかぶりつく慎二だった。  こういったバイキング形式の料理コースで、クルーズ中に太ってしまったという 客が大勢いるので要注意である。  食事を終えてしばらくすると、 『お客様にお知らせ致します。これより緊急避難訓練を行いますので、乗務員の指 示に従って救命ボート乗船口(Master Station)などへ移動してください』  船内放送が流れてきた。  マスターステーションとは、救命艇ごとに割り当てられた船内ラウンジなどのパ ブリックエリアのこと。 「避難訓練?」  慎二が尋ねると、 「ライフボートドリル (Life Boat Drill)よ。はい、説明書読んで」  梓が、パンフレットを渡す。  ライフボートドリル (マスタードリルともいう)とは、避難訓練の事です。万 が一の緊急時に備え、毎クルーズごとに避難訓練を行う事が国際海洋法で義務付け られています。避難場所の確認、ライフジャケット装着のデモンストレーション等 が行われます。  海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS条約)では乗船後、24時間以 内に避難訓練を行うことを義務付けています。通常、乗船日の出航前に行っています。  以下略。 「学校で行う避難訓練と同じだろ?」 「まあね。でも、学校は校庭に出ればいいだけだけど、船の上では周りは海だから ね。遅れたら死ぬのよ」 「タイタニック号の沈没みたいにか?」 「タイタニック号の場合は、乗客乗員数に対して救命ボートの数が三分の一程度し かなかったのよ。事故は防げなかったにしても、ボートが足りていれば防げた人命 災難ね」  ともかく乗務員の指示通りに、救命ボート乗り場へとやってきた。船べりに救命 艇(Life Boat)が据え付けられているのが見える。 「それでは、救命胴衣の装着方法をお教え致します」  乗務員のやり方を見よう見まねで、全員が救命胴衣(Life Jacket)を着けてゆく。
     
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