梓の日常/第一章 生まれ変わり
(七)絵利香そして  ファントムYは、旧市街を抜けて街外れにある大きな屋敷に入っていく。  正面門から玄関までの五百メートルほどの間には、透水性アスファルトが敷かれそ の両側には点々と花壇が並んでいる。右手の方には大きなプールがあり、左手にはヘ リポートがあって、いつでも発進できるように待機している。玄関の前は、大きな噴 水が水飛沫をあげるロータリーとなっている。  玄関前車寄せの両側に、メイド達がずらりと並んで、屋敷の主人を出迎えている。 「お帰りなさいませ。梓お嬢さま」 「お帰りなさいませ。渚さま」  いっせいにメイド達が頭を深く下げて挨拶する。その言葉は日本語である。  女性の中に混じって、ただ一人男性がいるが、どうやらこの屋敷の執事らしい。 「とっても可愛いお嬢さまね」  メイド達がささやきあっている。自分達の新しい主人となる、十二歳の梓の美しさ に、一同ため息をついていた。その中で一番前列に並んでいるメイドに前に出るよう に指示して、 『紹介するわ。こちらの三人は梓専属のメイドです』  その三人の着ているメイド服は、他のメイド達とは色・格好とも違っており、より 上質の素材で出来ているようであった。 『神田美智子です』 『花咲美鈴です』 『井上明美です』 『交代で面倒みてくれることになっています。日本語はもちろんのこと、英語の方も スペシャリストですから。それから、竜崎麗香さん』  麗香が一歩前に進み出た。 『ニューヨークから一緒に来日した麗香さんは、引き続き梓の世話役になっていただ きます。一応メイド主任を兼務するということで、あなたたち三人は麗香さんの指示 に従ってください』 『かしこまりました』  リビングに置かれたグランドピアノ。側のキャビネットには、たくさんの譜面が収 められている。 『ピアノか……』  その上に何気なく置かれた譜面を開いてみる。五線符に記された音符の列が、確か なリズムとなって梓の脳裏に浮かび上がってきた。  ……この俺に、弾けるかな……  ピアノの蓋を開けて、椅子に腰掛けてみる。鍵盤の位置が丁度いい具合になるよう に椅子の高さを調節する。  譜面を譜面台に置き、手を鍵盤に降ろして、しばし呼吸を整えてみる。  静かに曲を弾きはじめる。  鍵盤を叩く滑らかな手の動き、屋敷中に響き渡る妙なる調べ。  譜面を見なくとも次々と旋律が浮かび上がって来る。静かに目を閉じて、指先に全 神経を集中する。曲は途切れることなく泉のように湧きだして来るのだった。おそら く毎日のように鍵盤を叩いていたのであろう、身体全体がその動きを、その旋律を覚 えているのだ。 「お嬢さまが、ピアノを弾いてらっしゃる」  演奏を聞きつけたメイド達のほとんどがリビングに集まり、その演奏を邪魔しない ように静かに聞き耳を立てている。その中には渚も麗香もいて、目を閉じうっとりと 聞き入っている。 『良かった……。梓の音感性は失われていなかった』  演奏を終えて、そっと蓋を降ろす梓。  ぱちぱちぱち  突然拍手をしながら梓に近づいてくる少女がいた。 「相変わらず、お上手ね。梓」  梓は親しげに話し掛けて来るこの少女を思い出せないでいた。自分が見知っている 人物に違いないとという確信はあるのだが、どうしても名前が思い浮かばない。 『あら。いつのまにいらっしゃったの』 「玄関にだれも迎えてくれなくて、ピアノの音が聞こえていたから。勝手にあがらせ ていただきました」  仕事を放り出してピアノに聞き入っていたメイド達があわててそれぞれの持ち場に 戻っていく。  まあ、しようがないわね。というような表情で渚が謝った。 『ごめんなさいね、絵利香ちゃん』 「いえ、いいんです」  ……絵利香?……  じっと絵利香の顔を見つめる梓。  この絵利香という人物、英語で話し掛ける母親に、日本語で答えている。つまり両 言語を理解しているということだ。 「どうしたの? そんなに見つめて」 『ごめんなさい、絵利香ちゃん。梓は記憶障害を起こしているの。相手のことすぐに は思い出せないの。それと、日本語も忘れちゃっているのよ。だから私達も英語を使 っているわけ』 「ええ。そんなあ……こっちに来たら、英語は一切使わないで日本語だけで会話しま しょうって約束してたのに。しかもこのわたしのことも、忘れているなんて」
     
↓ 1日1回、クリックして頂ければ励みになります(*^^)v
小説・詩ランキング

11