梓の非日常/第一章 生まれ変わり
(四)記憶の糸  一人きりになり、改めて考えなおしてみる。  どうやら言語中枢は正常に機能していて、梓という女の子が日常的に使っているら しい英語を理解し話している。しかし記憶領域があいまいで、母親の言うとおり記憶 の混乱が生じているようだ。自分が梓という女の子であるという意識はあるにはある のだが、その一方では自分が男だったような意識の方が強く存在するのだ。  そして根本的な疑問があった。  自分が何故に病院に入院しているのかという疑問である。  母親はその件に関しては何も語っておらず、何故か隠しているような気もする。  記憶の糸をたぐってみる。  横断歩道、女の子、喧嘩、大型トラック、交通事故、血痕、信号機、サイレンの音。  次々と単語が思い浮かんでくる。  交通事故!  そうだ、それだ。交通事故にあったのなら、病院に入院している理由も納得がいく。 『お、思い出したぞ。事故の瞬間!』  交通事故の瞬間の情景が浮かんできた。  交差点で青信号で女の子が歩道を渡りはじめる。そこへ信号無視した大型トラック が襲いかかる。そこへ飛び込んで女の子を抱きかかえる男。  その事故の瞬間の情景が、果たして女の子の視点なのか、男の方の視点なのかはっ きりしない。ただイメージとして強く残っているのだ。事故という突然に起きた出来 事である、はっきり記憶しているほうがおかしいのかもしれない。 『間違いない。今の自分の意識は、その女の子を抱きかかえた男の方だ』  大型トラックに轢かれそうになった女の子を助けた男が、自分自身の本当の姿に違 いない。  ドアがノックされる。  ややあってドアが開き一人の若い女性が入って来る。麗香である。 『あら、起きてらしたのですか』  梓はベッドに腰掛けたまま、窓の外をぼんやりと見つめたままだった。 『あなたは?』  渚から意識障害のことを知らされている麗香はやさしく答える。 『お嬢さま。お忘れですか、麗香です。お嬢さまの身辺のお世話を任されている竜崎 麗香です』 『麗香……さん?』 『はい。そうです』  ……麗香さんか。お母さんが言ってた人。そういえば確かに見た覚えがある。しか し、俺は一度もあったことないはずだし……コロンビア大学?……なんかしらんが、 言葉まで浮かんできやがった…… 『麗香さんて、コロンビア大学だっけ』 『はい。コロンビア大学を卒業しました。それはお嬢さまもよくご存じのはずですよ ね』 『そう、確か、ニューヨークの寮に一緒に住んでた……でもなぜ……』  コロンビア大学という言葉をキーワードとして、麗香に関する記憶の糸が引き出さ れていく。セント・ジョン教会、五番街、世界貿易センター、セントラルパークなど、 次々と単語が浮かんでは消えていく。それは梓が過去に麗香と共に体験し記憶として 持っているものだった。 『あ、頭が痛い……』  記憶を無理矢理に引きだそうとしているせいか、精神力をかなり消耗していたのだ った。精神のオーバーロードを起こし、頭を抱えて苦しみだす梓。 『お、お嬢さま。無理なさらないで。私が軽率な発言したばかりに』  麗香は、自分のことを梓に確認させるような発言をしたことを後悔した。  病室内、ベッドに眠る梓のそばで、麗香と渚が見守っている。 「鎮静剤が効いてよく眠っております。容体のほうは異常ありません」  医者が脈を計りながら報告した。 『申し訳ありませんでした。渚さま』  深く頭を下げている麗香。 『注意が足りなかったようですね。梓は、記憶障害を起こしていて、精神も不安定な のです。過去の記憶に触れる時は十分に気を付けなければいけないのです』 『はい。以後、気をつけます』 『そうしてください。でもね、麗香さんには、今後とも期待しているのです。何せ、 母親である私以上に、もっとも親密に梓と生活を共にしてきた間柄なのですから』  コロンビア大学やニューヨークの寮生活のことを思いだしたらしい梓に、先行き明 るい希望が見えてきたことを確認し、梓をじっと見つめる二人。
     
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